福永武彦 第三随筆集 枕頭の書 目 次  読書漫筆   読書遍歴   机辺小閑   探偵小説の愉しみ   探偵小説と批評   ロマンの愉しみ   今ハ昔   本を愉しむ   推理小説とSF   枕頭の書  文人雅人   夷斎先生   川上澄生さんのこと   仲間の面々   柳田國男と心情の論理   懐しい鏡花   芥川龍之介と自殺   堀辰雄に学んだこと   折口信夫と古代への指向   花の縁   内田百さんの本   和様三銃士見立て   会津八一の書   現世一切夢幻也   或るレクイエム  身辺一冊の本   東洋的   純粋小説   危険な芸術   鴎外の文章   「大菩薩峠」の二三の特徴   私の古典「悪の華」   現代地獄篇   「堤中納言物語」   記紀歌謡四首   古代の魅力   「萩原朔太郎詩集」   「李陵」   頭脳の体操   「東海道中膝栗毛」   「珊瑚集」の思い出   辞典の話   「車塵集」のことなど   十人十訳   一冊きりの本   趣味的な文学史   ヘンリー・ミラーの絵   リルケと私   材料としての「今昔物語」   「月と六ペンス」雑感   「式子内親王」  足跡   夢想と実現   芸術と生活とについて   泉のほとり   取材旅行   能登一の宮   見る型と見ない型   海市再訪   掲載紙誌一覧   後記 [#改ページ] [#小見出し]  読書漫筆    読書遍歴  僕は大学を出てから相当に色んな職業も経験したし、また病気で長らく療養所の生活も送ったが、僕なりに人生を形成した方向というものを考えるとそれは高等学校と大学との学生時代に決定されたように思われる。そしてその形成の大きな要素の一つとして、書物というものを離れて青春を考えることは出来ない。これは決して学生時代がよかったとか、恵まれていたとかいう懐古的な意味ではない。書物を読む習慣が、後の人生の方向を決定する動機になることはあり得るだろう。またその習慣が、僕等の感受性がまだ新鮮な頃に、始められなければならないことは言を俟たない。  僕が高等学校にはいってまず感じたのは、読書の自由だった。というのは、中学生の頃、僕が親父から与えられていた書物は「漱石全集」と逍遙訳の「シェークスピア全集」、それにアーサー・ミー編纂の「少年百科事典」の三種類くらいのものだった。たしか中学二年の頃、こっそり古本屋から円本の「谷崎潤一郎集」を買って来て、それが親父にばれて大層困ったことがある。何しろ必要以外に小遣いを貰う習慣がなかったから、この時も友達に借りて来たと言ってごまかしたがそれならすぐ行って返して来いと叱られて、本を持ったまま夜の街をうろうろした。きっと昼飯のパン代か何かを節約して買ったものだろう。  ところで高等学校の寄宿舎にはいると、学校には図書館があるし(中学のそれと較べると、荘厳そのもので中へはいっただけで身顫いした)、寮にも図書室がある。小遣いもちゃんと貰っているし、週末に自宅へ帰ると「トメ食」と言ってその分の賄費が返却される。それで夢中になって本を買ったり借りたりし始めた。完全な雑学である。但しフランス語の主任教授が石川剛先生で、独特の教授法によって一年の一学期で初等文法がひとわたり終るから、そのために夏休みにはもう原書が読めるようになった。僕はこの夏休みにメリメの「モザイク」を買って来て、辞書と訳本とを首っぴきであらかた読みあげたが、そのあとは手当り次第に読み耽った。ドストイェフスキイの「白痴」の仏訳などは、メリメに引き続いて読んでひどく感激した覚えがある。ボードレールやランボーも、原書を買って来て紙ナイフで頁を切る時の嬉しさといったらなかった。  ところで詩集を読むようになった初め、というか詩に眼を開かれた初めは、萩原朔太郎である。寄宿寮の図書室で、恐らくは出たばかりの「氷島」を読み、魂をゆすぶられた。続いて「青猫」を読み、自分でも詩が書けるような気持がした。それから「月に吠える」を読んだのだから作者の制作順とは逆だが、それまで俳句や短歌しか知らなかったのが(実を言えば「啄木歌集」は小学生時代の最大の愛読書だったし、中学生の頃は下手な俳句をつくっていた)、急に一段と背丈の伸びた感じになって、白秋、茂吉、杢太郎、光太郎、犀星、耿之介、賢治、などを濫読し始めた。  その一方では漱石から離れて、鏡花、荷風、龍之介などの異様な世界に惹かれた。浪漫的な方向が、青春の方向と一致したためだろう。従って※[#「區+鳥」、unicode9dd7]外のよさなどはなかなか分らなかった。改造社や春陽堂の円本全集は端から読んだが、一番凝ったのはやはり鏡花と荷風とで、これは大学時代まで、古本屋を歩き廻って安い値段の初版本を探しまわったものだ。  高等学校の三年間は、結局、摸索にすぎず、その中から独創が生れて来るというものではなかった。  僕は大学の法科の入学試験に落っこちて、それからの一年間を何となく文学に憧れながらぶらぶらした。外語へ行ってロシア語を学んだが、これはプーシュキンやドストイェフスキイのごく少しを原語で読めるようになっただけで、僕の人生をそちらへ押し曲げるまでには至らなかった。ただ原語で読まなければ、文体を論じてはならないという教訓を得た。また僕は早稲田の演劇博物館の講義などに通い、せっせと演劇や映画の勉強をしたが、そっちの方向へ自分を投げ入れるだけの勇気もまたなかった。次の年、僕は文学をやるつもりで東大の仏文科を選んだ。実のところ学者になりたいという希望も少々はあった。  大学の一年の時にはフランスの現代演劇を読んだ。しかしどうも大した傑作にもお目にかからず、オニール、及びオニール以後のアメリカ演劇の方に一層魅力を感じたので止めてしまった。二年の時は象徴派の詩人たちを読んだ。ところが鈴木信太郎先生の厖大な文献蔵書類を見せていただいて、詩人になることはともかく、学者になることはとても僕のような貧書生にはむずかしいことが明かになった。三年の時は主としてフランスの現代小説を読んだ。それはまったくの濫読だったが、文学というものが少しずつ見えて来たのは、この頃からだったろう。その頃のことをもっと詳しく書くと面白いかもしれないが、読んだ本を羅列してみても始まらないからこれ位にしよう。 [#地付き](昭和二十九年十一月)     机辺小閑      雑誌  趣味のいい、可愛い、それでいて筋の通った雑誌が、この頃は殆どない。それはあらゆる雑誌が商品ということを旨として、読者は必ずしも暇つぶしにだけ、或いは実用むけにだけ、雑誌を買うわけではないことを、忘れているからだろう。雑誌は何も買った以上、読まなければならない代物ではない。その点、単行本と同じく、手に取って眺め、紙質や活字を調べ、目次や本文をめくって、これは愉しそうだという予感を持ち、いずれゆっくり読むことにして大事にしまっておく、そういう雑誌もあってもいい。とにかく時間に追いかけられ、二月も早く正月が来るというような風潮だから、商品以外の雑誌は成り立たないのだろう。何しろ世の中が忙しい。  筋の通った、と言うが、文芸雑誌は文芸雑誌なりに、綜合雑誌は綜合雑誌なりに、それぞれ筋は通ったつもりだろうが、中間読物や週刊誌のはやる世の中だから、多少とも中間ずれがしたり、週刊なみに急いだり、ゆっくり落ちつくことがない。僕の言うのは、謂《い》わば純粋雑誌といったものだが、純粋に筋が通るには、あまりに夾雑物が多すぎる。いっそ商売のためのPR雑誌の「あまから」とか「洋酒天国」とかの方が、趣味的に統一されていて面白い位だ。  僕の知る限り、筋のよく通った、必ずしも趣味的でない、見事な雑誌は、永井荷風の「文明」とか、有島武郎の「泉」とか、萩原朔太郎の「生理」とか、どれも個人雑誌だった。そこには主宰者の意志しかないわけだから、単行本と変りはないようだが、どうして、雑誌は薄い内容の中にめまぐるしいヴァラエティを持っていて、その一人の作家の才能を、色んな断面から見せてくれる。他の寄稿者が書いていると、主宰者の分身に見え、その才能のひろがりとも感じられて、単行本には見られない幅がある。その一冊を手にしても愉しいのだから、全冊取り揃えたなら、きっと単行本の比ではあるまい。しかし戦後は、こういう個人雑誌はとんとないようだ。個性の強い作家が減ったせいか、出版事情がそれを許さないのか。何としても残念である。  そこで次に、グループとして筋が通ったとなると、「明星」とか「感情」とか、「四季」とかいうことになるだろう。戦後では、僕たちのやった「方舟」などは出色だと信じている。ところが同人雑誌というのは、個人雑誌のように一人だけ個性が強いのではぶちこわしで、全体の水準を或る一定のところにきめて、そこに皆が譲歩し合わなければならない。同人の数が尠くても続かないし、多すぎれば船が山に上ることになる。しかしいっそ山に上ってもいいから、戦前の「文学界」や「四季」のような雑誌が、現在の日本文学には必要な気がする。僕なんか、書きたい作品がある時に、あの枚数という代物に縛られるために、たいてい途中でプランを変更する。情ないことだ。しかし同人雑誌で非営利的となれば、だいたい原稿料をもらえないのだから、それでは困ることも勿論だろう。      本  雑誌もそうだが、本の方も、気に入った本というのはなかなか出ないものだ。これはまったく自分の本だけに関することで、それも中身より、外側の話だ。中身はいつだって精いっぱいだから自分で自分に文句をつければいくらもあるが、それでは可哀そうだ。僕の言うのは、装幀、組、紙質などの外側の註文である。  大きな出版屋さんは、それぞれ本つくりには自信があるから僕みたいな新人の意見なんか採用してくれない。いつか講談社で、僕の「冥府」という短篇集を出してくれた時、カバーの絵を自分で描いてもいいということになった。下絵を何枚か描いてからせめて気に入ったのを印刷に出したら、出来上ったのを見たら情ない代物だった。しかしそれでも、絵の下手なのは僕の責任だが、そのカバーの下のボールの表紙たるや、色は死んでるし、背は曲ってるし、本はがたがただし、せっかく熱心だった係の人には悪いけれど、失望落胆して、みんな焼いてしまいたくなった。それからは自分で絵なんか描かないことにした。註文も出さない。つまりは時勢が違うので、そういう時、堀辰雄の昔の本を手に取ると、思わず溜息が出る。  堀さんはだいたい野田とか江川とか山本とかいう小さな本屋さんで、自分の好みの本を少部数印刷させた。どれも筋の通った、趣味のいい、如何にも堀さんらしい本だ。しかしこうした本屋さんの方は間もなく潰れてしまったから、潰れた原因のうちの何十パーセントかは堀さんに責任があるだろう。今どきそんな気前のいい本屋さんもいないだろうし、堀さんみたいに自分の好みに対して執拗な芸術家も尠いだろう。  僕は堀さんの限定出版の本も好きだが、野田から出た「狐の手套」みたいに、さっぱりしたクロースの、値段もそう高くない本を一番愛している。一つには、僕がこうした小品集を好むからだろう。戦前の河出書房から出た、同じく小品集の「雉子日記」も、ごく普通の紙装幀ながら、なかなか奥ゆかしくて、戦後の河出書房の本には、ああいう洒落れた味はない。  ついでに自分の本のことを言うと、僕が今迄に一番気に入ったのは、昭和二十三年に、北海道の帯広で出版した「ある青春」という詩集だ。これは戦争中に書いていた詩を集めて、大事にノオトブックに清書していた奴を、疎開した帯広で僕の親しくなった藤本善雄君という若い友人が、好意から出版してくれたものだ。彼は藤丸デパートという市でただ一軒の、しかし二階までしかないデパートの御曹司だった。何しろこの帯広というのは、電車もなく、映画館が二軒、古本屋が二軒という(今は知らない)僻遠の地で、書籍の出版なんかこれが初めてというところだったから、この詩集のためには、大変な苦労が要った。僕は一面識もない川上澄生氏に手紙を出して、ぜひ木版をつくってほしいと頼み、装幀用に一枚、口絵に五色刷を一枚、挿絵に白黒のを三枚、つくってもらった。  そこで中身の詩はとにかく、装幀と挿絵だけは素晴らしいから、限定版五十部と並製二千部とを刷ることにした。限定版のうち、初めの十冊はクロースで、あとの四十冊はボールに和紙を貼ることにして、材料の和紙は、藤本君がたしか真善美社から譲り受けた筈だ。ところで出来上ったのを僕が四十冊、出版元が十冊、分けてみたところ、何しろ当市で初めての出版というので、製本がお粗末で中には直にばらばらになるのが出て来る始末、それにクロース装の方は、木版がずれていたり、色が褪めていたり、どうもお粗末に出来上った。しかし素人が、一冊一冊手づくりで作った本というのは、何と言っても、本らしい味があって、僕はとても嬉しかった。(ついでに言えば、この限定版には奥附がない。これも素人らしいお粗末なところと言えよう。)  限定版の方は人に寄贈することでなくなったが、残りの紙装の二千部はどうなったか。これは定価が最初百円の予定だったのが、インフレのうえ本がなかなか出ないので、百二十円だか百五十円だかに値上して、奥附に紙を貼ってごまかしてあった。これがいっこうに(当然だが)売れなくて、藤丸デパートの地下の倉庫の中に、いつまでも山と積まれていたらしい。そのうちに水害で水びたしになったとか聞いた。藤本君はよっぽど損をしたらしくて、僕は大変気の毒したと思っている。それでも彼は、僕に印税の代りだと言って、予めじゃがいもを一俵くれた。  予めというのは本が出た頃には僕はもう東京に帰って来ていたからだ。その後、藤本君とはすっかり音信不通になったが、彼は道楽が過ぎて親父さんに叱られたらしく、二度と本を出版したということを聞かない。  堀さんが本屋を潰したなんぞと悪口を書いたが、僕もちょっと罪があるかしら。 [#地付き](昭和三十一年七月)       夏の読書  本を読むには秋の夜長に限るとは誰でもが言うことだ。確かに、そぞろ肌寒さを覚えて掌をこすり合せたり、頁を繰る手を休めて虫の音に耳を澄ませたりしながら、夜の更けるまで机に向うのは、能率も上れば気分も愉しいというものだろう。しかし僕のように、本を読み物を書くのを毎日の仕事としている身には、年がら年じゅう何の変りもないので、特に秋の夜長と読書の能率とを結びつけるわけにはいかない。それに気分という点から言えば、どういうものか夏の暑い昼下りに寝転んで本を読むのが、四季を通じて一番愉しいような気がする。これはどうも昔から、僕の中に固定してしまった観念らしい。  この前久しぶりに荷風全集を二三冊引張り出して来て、拾い読みをした。少し調べる必要があってのことだが、仕事とは別に、この読書が奇妙なほど昔の暑い夏の日射《ひざし》を想い起させた。それで今度は、これまた久しぶりに鏡花全集を出して来て、愉しみながら読み返した。永井荷風や泉鏡花が過去の夏を想い起させたからといって、作品の中にそういう喚起的な要素があるわけではない。また、夏の読書が特殊の経験に結びついているわけでもない。それは僕の記憶の中に澱んだまま眠っている一種の心情の傾斜のようなものである。僕はそれを自ら純粋記憶と名づけているが、それが時々僕の中で目を覚ます。  鏡花が先で、それから荷風に移った。僕が中学から旧制の高等学校へ進んだ頃のことである。古本屋を探し廻って、安い本ばかり買い漁ったものだが、この二人の作家にはまったく熱中したから随分沢山の本を集めていた。そして鏡花も荷風も、それを読んだ記憶はすべて夏のものである。  畳の上に裸のまま胡坐《あぐら》をかいている。右手に団扇を持ち、首に巻きつけた手拭で時々汗を拭く。それからお行儀が悪くなると、腹這いになる。身体を支えた肱が痛くなれば、本を片手に掴んで仰向に引繰り返る。とにかくいつでも眼は活字に吸いついて離れない。庭の方から時たま涼しい風が訪れる。そして夢中になっている少年の耳には、蝉の声さえもはいりはしない。そして時間はゆっくりと過ぎて行く。  それは明かに夏休みの気楽さと結びついているのだろう。もっと昔の、小学校の頃の夏休みにも、僕は朝のまだ涼しいうちに、一日の長さというものを、本を読む愉しみで測っていたような気がする。それは勉強を強いられる恐れもなければ(宿題はもう済ませてしまった)、学校へ出掛ける必要もない朝なのだ。みんみん蝉が合唱して、今日の一日がどんなに暑くなろうとも、僕は僕の本と共に一日を懶惰に過すことが出来るだろう。そして僕がこれから読む本の中には(それは「アラビアン・ナイト」だったろうか、「愛の学校」だったろうか)僕の知らない珍しい風物や感動的な事件が、ぎっしりと詰《つま》っていることだろう……。  高等学校で読んだ荷風や鏡花が、特に暑中休暇と結びつくためには、この子供の頃の記憶が関係があるに違いない。不断からせっせと買い集めた本は、謂わば蜜のようなものであり、夏の休みに入るとそれを貪り食うわけだ。この季節外れの冬眠は、確かに僕の怠け癖とも相通じていて、何しろ暑い盛りに汗を拭き拭き本を読んでいれば、そのうちうとうともするだろうし、鏡花の女が昼寝の夢に現れることがあれば、それも愉しさを増しこそすれ、決して学校の勉強最中の居睡りのような罪悪感を僕に与えはしなかっただろう。つまり、その時読書は僕にとっての最上の愉しみだったわけだ。  今では、夏になっても、そんな気楽な時間があるわけではない。本を読むとしても、仕事の傍ら、必要に迫られて読む本が多い。僕は、例えばバルザック全集などを書棚に揃えて、今年の夏はこれをゆっくり読もうなどと、毎年のように計画するのだが、いざ夏になってもそれだけの暇が、余裕が、出て来ない。僕は教師と文士とを兼ねた生活をしているから、夏休みという実感は昔の学生の頃と変らないが、教師にとっては夏休みでも、文士にとっては書入時なので、毎日仕事に追われることになる。夏休みと仕事とは結びついても、読書とは結びつかない。いずれゆっくり読む予定にしている新しい本が、本棚にふえるばかりである。  昔はそうではなかった。従って昔熱心に読んだ本は、無心にその頁を開くと、奇妙に僕に夏を思い出させるのだ。例えば紙表紙が既に黄ばんでしまったスタンダールの原書などは、その本を手に取っただけで、炎暑の東京の夏が、奇妙な懐しさを籠めて浮んで来る。決して或る一つの夏を思い出すのではなく、夏一般が、その含んでいるすべての本質的要素と共に、掌に載ったその重たさの中にある。無限に長い時間と、無限に約束された愉しみ。夏のけだるい安息感と、未知の世界へ踏み込んで行く好奇心。そのような愉しみが次第に衰えてしまったのは、単に忙しいというだけではすまず、一種の倦怠の中に僕が生きているからなのだろうか。マラルメは言った、「肉体は悲しい、私はすべての書物を読んだ」と。僕はすべての書物を読んだわけではないが、経験を重ねて、書物に対する新鮮な感動と、丁寧に読んで行くひたむきな根気とを失って来ている。それが夏の読書の愉しみを忘れさせた一番大きな原因なのかもしれない。  それでも、夏は僕にとってやはり待ち遠しい読書の季節である。      蒐書  僕はこの頃すっかり無精《ぶしよう》になって、殆ど古本屋を漁って歩くこともないが、鏡花や荷風に凝っていた頃は、何だかしょっちゅう古本屋を覗いて歩いたような気がする。本郷や神田は最も古本店の多い町だが、僕はその頃雑司ヶ谷に住んでいたから、早稲田まで散歩がてら行くことが多かった。どの店に何が幾らであるかを悉く諳《そら》んじて、安いのが手に入るまでは決して無闇と手を出すことをしない。但しどうしても欲しい本の場合は、どんなに遠くても出掛けて行く。一度「道程」の初版があると仄かに聞いて、板橋の古本屋をさんざ探して訪ね当てると、昨日売れたと言われてがっかりした覚えがある。僕は何も珍本や稀覯本ばかり蒐集していたわけではなく、好きな詩人や小説家のものなら何でもいい程度で、従って自慢できるほどの質と量とがあったとは言えない。また一人の作家に熱中するには、少々むら気だった。そして比較的本の集め易い作家、例えば鏡花なんかが書棚には多かった。  こういうことは、友達どうしで競争みたいになると、段々に蒐集そのものの方に興味が移って行くものだ。僕の高等学校の友人に、医科志望の理乙の男がいて、これは木下杢太郎に関しては、「食後の唄」を初めとして全部持っていた。また立原道造が死んだあとで、全集の資金を集めるために彼の蔵書の売立《うりたて》が催されたが、そこには森※[#「區+鳥」、unicode9dd7]外の初版本が殆ど完全に揃っていた。こんな蒐集を見るとがっかりして、とても根気が続かないと観念する。  そこで僕だが、僕の鏡花なんかまったく大したことはないと分ったから、それからは専ら重点的に、誰でもいいから作品本位に集めることに、それも如何にして安く買うかに、関心を持った。つまり一人の作家のものを端から全部揃えるには、資力も根気も足りない以上、方針を変える他はない。その結果、何となく集まったのは北原白秋以後の近代詩が主で、探していた詩集を手に入れた時の嬉しさは、今でも忘れられない。どの本も、中身は勿論のこと、本そのものの持つ感じにまで個性があって、実に立派だったように思う。僕のこういう蒐集は、フランスの象徴派やシュルレアリスム関係の蔵書なんかと共に、戦争でさっぱりと消えてなくなったから、そのための懐しさも少しばかり作用しているかもしれない。  ところで僕は、死児の齢を数えるように、今はありもしない蔵書のことなんか言い立てて、威張るつもりは毛頭ない。僕の言いたいのは、第一に※[#「區+鳥」、unicode9dd7]外や杢太郎や荷風のように、その作品を端から揃えたい気を起させる程の、魅力ある作家が尠くなったこと、第二に、一冊の詩集でも中身も外側も立派な、充実した代表詩集のようなものが見当らないこと、こういう点である。  現在では、何しろ出版される本の数があんまり多すぎるのが、最大の原因かもしれないが、作家や詩人の側にも、少々本を作りすぎる責任があるだろう。一冊一冊が新しい発展を示している小説、そして詩集の場合には、特に念入りに作られた数冊の詩集、——作家の一生はそれで足りよう。しかし何とぞんざいに、如何にも商売むきに、本が作られて行くことか。戦後十年以上も経って、生活が安定して来たとはいっても、出版に関しては徒らに量を誇るだけで、丁寧に作られた書物、内容装幀とも読者をすっかり満足させる本は、極めて尠い。豪華本などは論外にして、普通の本のレベルがもう少しあがり、作家の方でも自信のある本ばかりを出すということにしたいものだ。  と言っても、僕がそうだというのでは決してない。気に入った本は出来ず、徒らにしょっちゅう嘆くばかりだ。しかし理想としてはいつでもそうありたいと思う。あなたの本は揃えて持っています、と言ってくれる読者が、作家にとって何よりも一番嬉しいことではないだろうか。 [#地付き](昭和三十三年六月)     探偵小説の愉しみ  むかし、まだ学生の頃に、身分調査とか就職志望とかの用紙がまわって来ると、本籍とか得意の語学とかいう欄の他に、必ず趣味という欄があった。一体ひとの趣味なんか聞いて何になるんだと腹も立つが、正直に答えるとすれば、これがなかなかの難問なのだ。本を読むのは商売みたいなものだから「読書」でもないし、「音楽」ではキザだし「映画」では俗っぽい。結局は斜線を引いて、没趣味な奴だという悪しき印象を与えることになった。  今でも時々、趣味欄というのに書き込まされることがある。そこで近頃は探偵小説が大はやりだから、僕も安心して「趣味は探偵小説」と書くことにしている。つまりは碁が好きだとか、カメラに熱中するとか、蝶の採集が面白いとかいうのと同じ性質だ。  もっとも探偵小説と一口に言っても、書くのが趣味の人もいるだろうが、僕のは読む方だから広義の「読書」に含まれる筈だが、昔のようにその点にはこだわらない。というのも、探偵小説が文学だとはつゆ思っていないから、専門の本を読むのとは少々意味が違う。面白くなければいつでも途中で止めるという、甚だ無責任な読みかただ。  探偵小説の愉しみは、一言にいって個人的な、謂わば秘密の愉しみである。こっそり読んで、ひとりで悦に入って、読み終ったら忘れてしまうだけのものだ。これが芸術作品なら、友人をつかまえて議論をする。仮に友人がまだその作品を読んでいなければ、筋を話す、特徴を論じる、感想を述べる、つまりは人を説得する。  しかるに探偵小説の場合には、「君、あれ読んだ? まだ? ぜひ読みたまえ、面白いよ。」それだけだ。筋にも立ち入らないし、況《いわん》や特徴などは論じない。なぜなら、それは他人の愉しみを奪うことになるのだから。たまたま二人とも読んだ作品にぶつかっても、会話は極めて簡単だ。「あれは面白いね。」「いやあれは詰らん。」「そうかね?」「そうだよ。」それだけだ。まさに個人の自由は尊重すべきである。  だから一番腹が立つのは、探偵小説(および探偵映画)の筋書を書いた解説や批評の類だ。犯人はこうとか、トリックはこうとか、書いた方は親切かもしれないが、たねがばれたんでは愉しみはゼロになる。僕はこういったものは、初めから眼をつぶって読まない。探偵小説というものは、何等の予備知識なしに、自分の頭脳を作者の挑戦にぶつけて行くところが面白いのだ。作者の側からは名探偵が登場するが、僕の方だってけっこう名探偵のつもりなのだ。  勝負はフェアに行くべきで、僕が予め解説などを読んでいたら、これはフェアではないし、だいいち面白みが減る。そこで例えば、こういう探偵小説はどうだろう。——  ある新聞に新刊の探偵小説の匿名批評が出て、そこにトリックおよび犯人がばらされる。その匿名の批評家が殺される。名探偵が調べた結果、犯人はその探偵小説家で、殺人の動機は、彼の本が書評のためにさっぱり売れなかったからだった。動機が奇抜で、匿名の批評家は誰かというサスペンスもあり、ついでに小説中に問題の探偵小説が全文掲載という新形式を踏めば、これは素晴らしく独創的な探偵小説になるんじゃないかと。——こんなことを考えるようでは、僕の「趣味は探偵小説」も、そろそろ読むだけでは収まらぬ段階に及んでいるのかもしれない。  これは冗談で、僕は長篇探偵小説を書くだけの勇気はないが、もし探偵小説がひとりだけの、秘密の愉しみだとしたなら、作者たることがその愉しみの絶頂だろう。  イギリスには、フィルポッツやメーソンや、ミルンのように、専門は文学で趣味は探偵小説作家というのが多い。アメリカのヴァン・ダインや、エラリー・クイーンのように匿名で書いた連中は、きっと書きながらぞくぞくするほど嬉しかったろうと思う。  犯人が誰かという上に作者は誰かという謎まであれば、読者にとっても愉しみが二重になるというものだ。      *  探偵小説が文学かどうかという議論があるようだが、結果的に見て文学というに足りる作品があるとしても、まず探偵小説は探偵小説という特別の世界に安住している方が、無難なように思われる。つまりこのジャンルは、それを形成する条件が普通の文学とはいっぷう変っているのだ。  探偵小説の本質的要素は、第一に筋、第二にトリック、第三に推理と、これだけは絶対に必要。従って構成はきちんとして、物語の進行はこころよい迫力を持ち、そこに魅力ある主人公(名探偵)が登場しなければならぬ。  これに対して、人物が書けているとか(例、フィルポッツ「闇からの声」)、描写が精密だとか(例、クイーン「Yの悲劇」)、雰囲気が盛り上るとか(例、カー「夜歩く」)、作者が教養をひけらかすとか(例、ヴァン・ダイン「僧正殺人事件」)、すべてこういう特質は二の次であり、これらの作品が優秀なのは、何よりも筋・トリック・推理の三点がすぐれているからに他ならない。しかもそのうち、特に推理の部分が傑出していなければ、如何に文学的に見せかけても探偵小説としては落第だ。  従って、筋が分り犯人が分った探偵小説は、魅力が半減どころかゼロになるわけだが、たまたま少数の例外として、同じものを二度読んでも三度読んでも面白いというのがある。こうした傑作は、僕の経験した範囲内ではクイーンの「Yの悲劇」、ヴァン・ダインの「僧正殺人事件」と「グリーン家殺人事件」、クリスチイの「アクロイド殺人事件」などで、読み直したくなるほど印象的な作品はそう沢山はない。そしてすぐれた作品は、例外なく、推理の部分が美しい。一種の幾何学的な美しさである。  芸術としての小説は、大ざっぱに言って、登場人物たちの人生を肯定的に、あるいは否定的に、読者に追体験させ、そこに読者それぞれの感想を喚び起させる。読者に訴えるのは、精神と感情との総和である全人間的なものに対してである。ところが探偵小説は、人生に肉薄する必要は少しもないし、その訴えるものも読者の精神、その知的な分析力に対してである。読者を怖がらせたりはらはらさせたりすることは、すべて附けたりで、面白さの本質ではない。  ところでここに、芸術としての小説と探偵小説とが、結果的に見て同じ効果を与える点がある。探偵小説は、僕に言わせれば、読者を作品に参加させるものだ。途中まで謎のままに提出されている材料は、名探偵が推理するのとは別に、読者の方でも推理してみなければ作品を愉しんだことにならない。つまりすぐれた作品は、否応なしに、読者に参加を強要する。そして読者が全力をあげて彼自身の解釈を発見した場合に、たとえ作者から見事にいっぱい食わされたとしても、読後に爽快なカタルシスがある。  この種のカタルシスは、芸術作品の場合に読者の感じるカタルシスとは性質が違うかもしれないが、読書の与える効用に他ならない。      *  読者が作品に参加するという問題は、謂わば象徴主義の理論なのだが、二十世紀の小説が作者の意見を押しつける種類のものから、次第に読者の想像力を刺戟し、作品の中に空白の部分を残すようなものに変りつつあることと睨み合すと、探偵小説がはやることも、文学とまんざら関係がなくもない。アメリカ文学で、ヘミングウェイはこの種の象徴的な、読者の参加を求める文体を創始したが、この文体がアメリカ的探偵小説に大いに影響を与えたというのも、単にこの文体が、非情でスピーディな現代生活の描写にふさわしいものだというだけのことではあるまい。  僕は何もヘミングウェイを論じるつもりはないし、ハードボイルド派の探偵小説は少数の例外をのぞいて、本格派のものほど好きではないが、ただ読者の参加を要求する小説方法というものに興味があるから、ちょっとそのことに触れてみた。 [#地付き](昭和三十一年四月)     探偵小説と批評  野球には野球評論家というものがあるし、映画には映画批評家というものがある。専門家ともなれば、選手の顔を覚えたり、映画スターの経歴を諳んじたり、それ相応の苦労はあるだろうが、もともとは好きな道なのだから、はた目には羨ましい商売の如く見える。その他万般にわたって、芸術、スポーツ、趣味、風俗、すべてお抱えの批評家を擁していないものはない。況や文学などに至っては、批評家は小説家に劣らない重要な登場人物で、横から出て来ては大向うを唸らせる。詰《つま》らない小説よりは、その小説をうまく料理した批評のほうが、多分に上等である。  という大前提から、さて文学の特殊部門である探偵小説界に眼を移すと、不思議に批評家に乏しいことに気がつく。アメリカやイギリスのような探偵小説の盛んな国では、もちろん、専門の批評家がいるのだろうが、僕はよく知らない。知っている範囲では、古文書学者、文献蒐集家、といった高級な学者か、年の暮にベストテンを作製する時評家ばかりが眼について、これといって優秀な批評家の名前を聞かない。我が国でも、江戸川乱歩氏や中島河太郎氏は高級な学者に属するようで、批評家はとんと払底している。花の活けかたから茶碗のデザインに至るまで、すべて専門の批評家がいる世の中に、極めて珍しい現象である。その理由を一つ考えてみよう。  およそ探偵小説の批評ほど、タブーで縛られたものは、他のジャンルにはないだろう。タブーの第一は、真犯人の名前、第二は殺人の動機、第三は殺人の方法、第四は小道具、等々、こうなると、じゃ一体何を書けばいいかと反問したくなる。このタブーは、真面目な批評を下そうと思うと、どうしても抵触してしまうから、「やや退屈だ」とか「論理が一貫している」とか「風変り」だとか「もう少しサスペンスを」とか、つまりはごく曖昧なことを言ってお茶を濁す。  どうも酒壜を撫でて葡萄酒の古さを論じるようなところがある。といって、犯人の名前もばらす、トリックも教える、という批評では、読者はかんかんに怒るだろう。生じっかな素人批評は、読者からせっかくの愉しみを奪い取る悪徳の一つである、と息巻く者も出て来よう。とすれば、タブーを承知の上でうまい批評を書くことは、並大抵の才能では出来ないということになりはしないか。  ところが更に重要な問題は、探偵小説というジャンルそのものにかかっている。僕等は一冊を手に取る。面白いと言って人にすすめられたか、偶然に本屋の棚から引き抜いたか、とにかく、最後に近い部分は間違っても開いてみないから、誰が犯人かは知らない。そこで第一頁からゆるゆると手探りで読み進むうちに、女というものはいつでも臭いとか、なぜ窓がしまっていたのだろうとか、マッチ棒が燃え尽きているのはパイプに火を点けた証拠だとか、しょっちゅう考える。それからまた気が変って、犯人は力持ちだから女の筈はないとか、窓は寒いからしまっていたまでだとか、ぼんやりしてれば紙巻煙草でもマッチ一本使い切るとか、自問自答する。それが読者の愉しみというものだ。つまり、読者は、探偵小説を読むに当って、一人一人が名探偵なのである。名探偵というのは、つまり批評家である。  探偵小説は(本格物の場合だが)謎解きの論理が一貫していれば、ひどく詰らないものでも、読者は或る程度我慢する。人物の性格が書けていない時には、読者は自分の想像力を働かせて、その部分を補って読む(そこでは読者は小説家に転身している)。そして無意識的にその小説の不足した内容を埋めるという作用は、もしそれが意識にまで高まれば、批評家としての仕事に等しい。意外な犯人なら満足するだろうし、トリックが子供騙しなら、憤慨するだろう。探偵小説は、殺人という約束ごとの上に成立するから、読者は常に高見の見物である。見物は身銭を切っているだけに、その殺人の方法や動機にどんな文句でもつけられる。最後まで作者のペテンに引っかかって、文句をつける点が見つからなければ、それは立派に批評に耐え得た作品である。  その点から探偵小説は、一般的に言って、小説の二十世紀的方法に対して一種の重要な暗示を与えているように思われる。つまり一つの作品は、読者の想像力の協力によって成立する、という方法。単に小説の世界に誘い入れるだけではなく、その世界の中では、読者が一緒になって考え、想像し、批判し、同情するという精神作用を、読者に強要するのである。そこから、探偵小説界の最近の傾向であるハードボイルド物を考えてみよう。しばしば犯人は既に分っている。従って推理的興味は薄い。読者は、主人公(タフ・ガイである)と共に、自分とは縁遠い世界の中に投げ込まれ、その男が目まぐるしく駆けめぐる間、一緒に附き合される。大人向きのお伽噺なのだろうか。お伽噺なら無条件で愉しめばそれでいい。しかし良質のハードボイルド物では、現代の一断面が截られ、現代人が行動する。シカゴの裏街が舞台だからといって、決して縁遠い世界と言い切ることは出来ない。その世界に僕等が没入する場合、僕等の想像力(それがつまり、ぞくぞくする快感の源なのだが)と同時に、僕等の批評力も働き始める。この主人公は腕は確かだが頭のほうは大丈夫かな、ピストルを忘れるなんて飛んだ奴だ、背後にいる大物のボスはそれじゃないぞ、こんな考えがしょっちゅう生れたり消えたりしている。そして読者の方で創り上げた世界が、読むにつれて大きくなり、作品がそれに充分に抵抗し得る場合に限って、作品も優秀であり、読者も満足するのだ。読者を批評家にし得ないような作品は、単なるお伽噺か、でなければ、一般の小説と較べて、あまりにもひ弱い読み物というに過ぎない。読者の方も馴れるに従って、単なる筋とか論理とか以上に、批評の眼を働かせるようになるだろう。だから探偵小説の公的批評が、どんなにタブーで縛られていようとも、その小説を読んだ読者の一人一人は、自由に自分の批評を持ち得るし、かつ自分の批評は、他人の批評よりもよっぽど面白い筈である。ところが批評という形式は、読者のためよりも作者である小説家の方にこそ必要なのだから、読者がみんな批評家になっても、その声は小説家にまでは聞えて来ない。従って探偵小説家は、いっこう進歩もなく、駄作ばかり書くということになる。これが我が国の現状のようだから、小説家が自分のうちに批評家の分身を持つか、タブーを物ともしない優秀な専門批評家が現れるか、この二つがなければ、我が国の探偵小説界の前途は洋々たりとは言えないように思われるけれど、どうだろう。 [#地付き](昭和三十三年二月)     ロマンの愉しみ 「小説」という言葉は、我が国では長篇をも短篇をも等しく指していて、いくら長くても「大説」と言わないところが馬鹿に奥ゆかしいが、この方は外国での名前は novel 或いは roman である。但し、ノヴェルの原型の novella は「デカメロン」ふうの短篇を指すのだから、我が国の場合と同じく、初めは物珍しい短篇を意味していた言葉が、いつしか長篇にも使われるようになったものだろう。一方のロマンの方は「ロマンス」という文字と関係があり、ラテン語ならざる俗っぽいロマン語で書かれた作品を指していたから、もともと小説が広い層の読者のためのものであることを証明してあまりがある。  と、如何にも語源的解釈などを頭に持ち出して学のあるような顔をしたのは、他でもないが近頃ロマンという字がだいぶ流行したあげく、ロマンスと使うべきところにロマンなどと誤植して、例えば映画の広告に「香り高きロマン」などと書かれて、こっちが顔を赤くすることがあるからだ。いくらロマンという字がロマンチックでも、小説と映画とを一緒くたにするわけにはいかないでしょう。  そのロマンなる言葉の流行を促進したのには、東京創元社の「大ロマン全集」も一役買ったに違いないと僕は睨んでいる。その前に河出書房から、我が国古典の現代語訳を出すけど、いい名前はありませんかときかれて、さあねと言っているうち彼等は「国民文学」なる名称を発見した。東京創元社の方も、何かどきっとするような名前を考えて下さいと言われて、やっぱり、さあねと首をひねっているうち、彼等は「大ロマン」なる着想を得た。実に僕の無能なるに反して、ジャーナリスト諸君の勘のよさは驚くほかはない。  その「大ロマン」だが、この「大」という字が曲者である(ついでに言えば「国民文学」の「国民」というのも、曖昧なのに何となく分ったような気のするうまい言葉だ)。「大」は決して、長いとか規模壮大とかを指すわけではあるまい。と言って必ずしも通俗小説、大衆小説というのでもない。何となく「大」であり、ただのロマンとは趣きが違うらしい。つまりこの題名の中には推理的要素を含んでいて、大ロマンとは何か、という問題が提出されていることになる。一冊買って読者自ら答えて下さい、と言わんばかりの巧妙な宣伝である。  そこで大ロマンとは何だろう。とどのつまりは面白い小説のことなのだろうと僕は思う。十九世紀のフランス・ロマン派の時代に、日刊新聞の発達に伴って、 feuilleton と称される通俗小説が各新聞に連載された。ウージェヌ・シューの「パリの秘密」や「オペラの怪人」などはその代表作だが、それと同時にフイユトン的傑作が次々と現れた。そのどこまでが新聞に連載された作品か、旅先でこれを書いているからちょっと調べがつかないが、アレクサンドル・デュマの「モンテ・クリスト伯」とか、ユーゴーの「レ・ミゼラブル」とか、バルザックの多くの作品とかを最高峰として、一般大衆の悦びそうな、しかも文学史に残るような傑作が洛陽の紙価を高からしめた。作者の個性が強ければ、通俗的に書いても決して単なる読み物には終らない筈だが、面白いということの中に、読者を引きつけて離さない何かがなければ、決して作者の名前だけで面白がられる筈はない。そこにこうしたロマンの共通の要素というものが考えられる。  最初に思いつくのは、「嘘」の愉しさであろう。但し「嘘がまこと」になった場合に限る。読者の日常では起り得ない事件が、小説の中ではぞくぞく起る。空想的な作風では、読者はアフリカの山奥深く入り込んで、不老長生の美女に会う。嘘にきまった話だが、嘘でもやっぱり面白いのだから、読者はそのうちに本当と嘘との区別がつかなくなる。歴史的な題材では、読者はネロと共にローマの大火に立ち会う。これは本当にあった話らしい、しかし本当だから面白いのではなく、嘘のような話だから固唾を呑むわけだ。もっと現実的なストーリイでも、例えば「可憐な乙女」の登場する恋愛小説がある。確かに可憐な乙女は読者の身辺にも存在するかもしれないが、こんな嘘のような恋愛は夢の中にしか現れる筈がない。仮に小説的な恋愛が現実に起りつつあるとすれば、その御当人は何も小説なんかにうつつを抜かさなくても結構忙しいわけだ。  ところが一方に、芸術的と称されるすこぶる現実に密着した小説がある。そして僕みたいな小説家は、まさにそっちの方を書きたいと思って苦労する。この点に、僕にとっての矛盾が存在することは疑い得ない。つまり僕は、書く方は自分本位の、少数の読者相手の、難解な小説であり、面白がって読む方のは嘘の多い、興味本位の、謂わゆる大ロマンである。この場合に、現実というものの考えかたが根本から違っているのだろう。つまり嘘の上に本当らしさをつくるのは、作者が嘘を承知でひねくっていることを意味するし、反対の場合には、作者の選んだ現実が本当であると固く信じているから、作者も自信があるのだ。問題は現実と作者との接触のしかたにあると言えるようだ。どんな小説でも、その舞台は一種の現実、つくり上げられた現実であることは勿論だが、それを「本当」として書くか、「本当らしく」として書くかで、自《おのずか》ら読者に与える印象が異って来る。ところが嘘を本当らしく書くのも難しいが、本当を本当らしく書くのは更に難しいのだ。(ちょっと注意しておけば、「本当」というのは、本当にあったこと、つまり私的な体験とか、社会的事件の報告とかいう意味でないことは勿論である)。  そこに抒情詩と叙事詩という区別を思い出してみると、芸術的小説は抒情詩に似通ったところがある。抒情詩はどんなに短くても、その中に固有の世界を打ち立てる。それはそれだけで完成した一つの小世界、つまり精神的な現実であり、「本当」のものでなければならない。それに対して叙事詩は、或る英雄の伝記であり、その時々の英雄の(従って作者の)感情に従って起伏するが、筋そのものは突拍子もないものであっても構わない。細部に現実があればそれでいいし、その細部の組立てに嘘を本当にするだけの一種のごまかしがあれば、読者はた易く騙される。叙事詩は昔は朗詠されたものだから、読者というよりも聞き手が相手だが、例えばリズムとか調子のよい文体とかもごまかしの役目をつとめたし、モデルが先祖の英雄だとか、歌われた事件が周知のものだとかいうのも、あずかって力があった。  この議論は抒情詩と芸術的小説とを結びつける点に難点を持つことは承知しているが、大衆的な小説が叙事詩と似ていることには多分間違いがないだろう。面白い長篇小説の愉しみの一つは、主人公である英雄が、次にどういう場面に遭遇するかという期待で読者を引張って行く点だ。謂わばそれは未知の地方への旅行に似ていて、どんな新しい風物が目前に現れるのか、旅人の方はしょっちゅう胸をふくらませている。旅人の空想よりも現れ出た景色の方が常に雄大であり、旅人は常にびっくりする。たまに期待を裏切られるようなお粗末な風景を見ても、寛大な旅人(読者)は、しかしこの次は面白いかもしれないと、かえって先の道程に期待を掛けさえする。何といってもこの旅行は、初めから未知の空想国へと道が通じていたのだから、面白くなければ困るという無意識の期待をも、読者は知らず識らずに持っているわけだ(芸術的な小説では、道程そのものが問題なので、初めから空想国があるわけではない。読者がめぐりめぐってそこに初めて国が出来上ると言えるだろう)。  そこであまり固苦しい議論は止めにして、ひたすら面白い小説を展望してみると、これには二種類の愉しみかたがある。一つは各国別に国籍によって味が違う点に、他はジャンル別に内容によって味が違う点に。  一番面白い小説は何だろうというのはなかなかの難問だが、古典的な「物語」をもこの枠の中に入れるとすれば、僕は「千夜一夜物語」を代表に選びたい(但しマルドリュス版は僕はまだ全部を読んではいず、いずれの愉しみに取ってある。従って僕の知っているのはギャランによる仏訳二冊本とレーン版とにすぎないが)。それに比肩するのは「水滸伝」ではないかと思う(僕の読んだのは馬琴訳)。この両者は、しかし、ペルシャとシナとの国籍を明かに示していて、同じ荒唐無稽でも無稽さがだいぶ違う。前者は要するに女性的な智慧の物語だし、後者は英雄豪傑の荒っぽい武勇伝である。というふうに、多くの読者を面白がらせるだけあって、必ずや国民文学的な性格がそこに現れて来るものだ。近代の小説でも同じことで、国籍別に代表的傑作を少しばかりあげてみれば、そのことはすぐに分る。  イギリスではチャールズ・ディッキンズが何といっても一流だが、これはフランスのバルザックと共に、芸術的小説の方に入れるべきかもしれない。しかしディッキンズの「大いなる遺産」のような作品は、同時に面白くて芸術的な市民小説の最高峰の一つである。そこでディッキンズを別格とすれば、スティヴンスンの「宝島」、コナン・ドイルの探偵物と神秘物、ライダー・ハガードの探検物、このへんに相場が一定していて、何れもジョンブル気質を丸出しにしているから愉快だ。  翻《ひるがえ》ってフランスでは、アレクサンドル・デュマに匹敵する大作家は現代までに見当らない。「モンテ・クリスト伯」とダルタニヤン物とのどっちを採るかは議論の分れ目だが、「三銃士」の面白さはフランス人のゴール気質を抜きにしては考えられない。というふうに見て行くと、アメリカではマーク・トゥエインの「トム・ソーヤー」だろうし、スペインではイバーニェスの「血と砂」だろうし、イタリアではアミーチスの「クオレ」だろうし、ソヴィエトではイリフ・ペトロフの「黄金の仔牛」だろうし、ドイツではケストナーの「少年探偵団」だろうか。思い出すままにいい加減に選んだので、傑作は他にも色々あるだろうが、とにかくお国柄を見せているものほど、外国人である僕等にも面白いということになるだろう。  ついでに我が国ではどうかと言えば、「源氏物語」は国民的大遺産には相違ないが、原文で読むのはプルーストを読むのに匹敵するほどの難解な芸術的傑作だから別にし、「平家物語」や「源平盛衰記」はこれまた古いから取りのぞくと、まず大ロマンの筆頭は馬琴ということになる。「八犬伝」や「美少年録」には昔寝食を忘れた覚えがあるが、去年の夏、岩波の古典大系で「弓張月」の上巻が配本された時には一息に読み終って、続きがいっこうに配本されないので大いに悲観した。明治以降では逍遙の「書生気質」や露伴の「天うつ波」や、紅葉の「金色夜叉」や鏡花の「風流線」や、漱石の「猫」なんかは大ロマンの名にふさわしいと思うのだが、大正時代に大衆文学と純文学との二本立てに区別されてからは、どうもお互いにそっぽを向き合った形で、すぐれた大衆文学はどうも長さの点でのみ「大」ロマンであるように見える(もっとも最大の長さを持つ「大菩薩峠」は、確かに傑作に違いないが)。  次にジャンル別にこうした面白いロマンを分類してみると、これが実に種々様々である。同じ歴史小説でも、デュマの「鉄仮面」とボアゴベーの「鉄仮面」とでは扱いかたがまるで違うし、同じ冒険物でもライダー・ハガードの「洞窟の女王」とピエル・ブノワの「アトランチード」とではまるで違う。コナン・ドイルの「失われた世界」も冒険を主とした探検小説だが、これは狙いが一層ひとを喰っている。勿論さっきあげた国民性的な相違も、ハガードとブノワとの間にはあるだろう。この他、空想科学小説、ユーモア小説、推理小説、剣豪小説、恐怖小説、人情物、恋愛物といくらでもジャンルを考えられるが、この種の小説は、面白くあるためには新手新手と行かなければならず、その結果オルツイ女史の「紅はこべ」は歴史小説に推理的要素を織り込み、カミの「エッフェル塔の潜水夫」は推理小説のユーモア仕立てというふうに、ジャンルが次第にこんぐらがって来るという面白さもある。何といっても一つのジャンルを確立した作家は一流の名に値するから、例えばジュール・ヴェルヌは今日でも尚読むことが出来る。この後更に流行するジャンルは、ヴェルヌの系統を更に延長した宇宙旅行小説ではないかと僕は考えている。  ちょっと言い落したが、我が国近代の大ロマン作家は黒岩涙香ではないだろうか。涙香のは大抵が翻訳で、それこそ外国の国民文学を日本的な人情物に変えて、すっかり換骨奪胎した腕前は凡手ではない。僕は「モンテ・クリスト伯」を、中学生時代に初めて「巌窟王」として読み、大学生時代に原書で読み、卒業してから涙香によって再読し、その後また原文に忠実な翻訳で読んだが、その何れもが面白く、甲乙をつけられなかった。涙香の「死美人」「幽霊塔」「鉄仮面」「野の花」などは有名だが、先頃たまたま「捨小舟」というのを古本屋で五十円で買って来て読み始めたら一晩徹夜してしまった。あの文語体の荘重な味が何とも言えないのだが、これは今や懐古趣味か。  こんなことを長々と書いていたら、芸術的な小説なんかと取り組んで頭を痛くするのが、次第に馬鹿げて見え出した。とにかく今晩のところは自分の小説なんか忘れることにして、ひとつ面白おかしい小説をゆっくり愉しむことにきめた。さて、ところでどれにしようか。 [#地付き](昭和三十四年六月)     今ハ昔  僕等は朝に夕に新聞を見る。ラジオやテレヴィが如何に普及しても、新聞なしでは済まされない。新聞の社会面は、昔は雑報記事とか三面記事とか称されて、世俗的興味を最も多く含んだ部分である。政治や外交に疎《うと》い人でも、どこで人殺しがあったとか火事があったとかいう記事には眼が行く。ゴシップというものも面白いし、洒落れたコラムは息抜きに宜しい。新聞の記事をもう少し詳しくして、かつそこにゴシップ的、コラム的要素を加えて、読み物ふうに仕立て上げたのは、近頃はやりの週刊誌のトップ記事である。これも大抵の人が読むらしい。  断っておくが、僕はこの種のものは読まない。新聞の社会面というのも殆ど読むことはない。けれども、もし誰かが、こんな面白い話があるけど君知ってるかい? と言い、それから相手が面白おかしく新聞ダネのその話を聞かせてくれるのは、僕は大好きだ。僕の友人の或る小説家は、ひそかに僕がゴシッパアと名づけたほどの話好きで、興至れば、あることないこと、というより、ありそうもない事をペラペラと喋って人を煙に巻く。僕が面白がるのは、その場合話のタネというよりもその語りぐちである。 「今昔物語集」は十二世紀頃の作品だから、実に驚くべき長い年月を生き残った古典作品だが、これを分類すれば説話文学に属する。言い換えれば、面白い話を喋って聞かせるという体裁だ。但しその話のタネは、天竺《てんじく》すなわちインドのパーリ語で書かれた「ジャータカ」(本生譚)を原型とする仏典、及びその応用としての、王朝時代の我が国の世間話である。「今昔物語集」の構成が、天竺の「仏法」を原理として、震旦・本朝の「世俗」を応用とするという意見は、他のところで述べたからここには触れない。つまり「仏法」に関しては仏典、即ち学問的宗教的著作がそのもとにあり、「世俗」に関しては、人々の噂話、つまりは現在なら新聞の社会面を賑わすであろうような事件が、数多く取り扱われているという寸法である。  もっともこれは一概には言えないので、天竺の部は主として仏典に材料を仰いでいるが、震旦・本朝の部では、それ以外の書物的知識も巧みに消化されて、材料に使われているということはある。しかしそのような場合でも、作者の態度は必ずしも書斎的、学問的ではない。天竺の部では(原理を示すためもあって)作者の態度は比較的厳正であるが、震旦に来ると(特に巻第十)、材料を扱うに際して作者の好奇心が次第に露骨になり、本朝の「仏法」に至っては社会面はだしのなまなましさを持つようになる。この|なまなましさ《ヽヽヽヽヽヽ》という点が「今昔」の最大の特徴で、外国の事件でも、また昔起った事件でも、常に作者が現在的興味を抱いていたことを証明するものだ。 「今ハ昔」という各段の起語は「今では昔のことだが」と「昔」の方に力点を置いて取るのが普通だが、これは「今」と「昔」とを同じ重さで「今は即ち昔」と取ることも可能だろうと思う。もしこの両者が等量だとすれば、逆に「昔といってもそれは今」という意味にもなり、つまり historical present を明示して、読者をまず現在の地点に立たせるという役割を果すことになるだろう。例えば昔話をする時に、話し手は、それが「昔」のことだと強調することによって、かえって現に語りつつあるこの時間の中に聞き手を誘い込む。新聞記事が過去の事件として死んでいるのに、それが話し手の口から出て来ると、現在として感じられるのは、時間がその時、話し手の口の中から fictif なものとして生れて来るからである。聞く方が話に誘い込まれて一喜一憂するのは創られたこの現在の時間の中に、聞き手が自分の身を置くからである。その時、事件はなまなましいものとして受け取られる。 「今昔物語集」の千にあまる短篇は、全体的構成を考えずにこれを短篇の集成と見るならば、その一つずつが固有の時間、つまり「昔」を持っているとはいえ、読者の側に与えられているのは、常に同じ「今」である。「今」である以上、天竺や震旦が舞台になっていても、読者は現にその時間の枠の中に生きることを要求される。勿論そこには、語られた事件の多様性、奇妙さ、或いは着眼の巧みさというような魅力はある。話そのものが面白いのが最大の武器に違いない。しかし大して面白くない話、平凡で退屈な話もないわけではない。しかしその場合でも、語りぐちのうまさが物を言う。つまり文体ということになる。  新聞記事はそれが hot news であることに価値を持つが、「今昔」の物語は材料の古い新しいには関りがない。常にそれが「今」の時間から語られている以上、時間的な移動の速さ、展開の見事さが、時間を凝縮させる。「其ノ夜ハアリテ、夜明ケテ後ニ見レバ」の類である。文体は簡潔であり、論理的であり、即物的である。作者が客観的に物を見るから、しばしば滑稽な効果を生む。どんな事件も、作者によって再構成されているから、必ずリアリストとしての冷静な文章で書かれている。材料によっては、ひどく浪漫的な物語も出て来るが、その場合でも、ロマネスクな事実そのものをして語らしめるから、作者が感動を露《あらわ》に示すことをしない。甚だ新聞記事に近いが、新聞記事そのものではない。隠された作者の主観は、仏教的世界観によって明かに裏打ちされている。 「今ハ昔」で始まるように、各々の話はおおむね教訓によって終る。しかしこの教訓は、「ジャータカ」や「イソップ寓話」のように、文字通りの教訓というのとは違っている。新聞のコラムのように、単なる随筆の場合もあれば、識者の意見という場合もある。この識者は、文化人というよりも生活人と呼んだ方が「今昔」の作者の場合には正確だろう。人によっては、おしまいに教訓のくっついているのが、非文学的で気に入らないと考えるだろう。これは寓話文学の古典的形式で、今の人には子供向きと思われやすい。しかし「今昔物語集」の場合、この教訓的部分は不可欠のものだと僕は考えたい。 「今ハ昔」という起語によって、読者は歴史的現在の中に連れ込まれる。勿論、過去形で書かれていて、読者は現在としてそれを読む。しかし教訓的部分は現在形そのものである。「此レヲ以テ思フニ譬《タト》ヒ讎《アダ》ヲ報ズト云フトモ人ヲ殺害スル事ナカレ。」即ち、作者は自らその時間の中に身を置き、読者が今までの話を現在として読み取ることを強制する。その上で、作者はするりとこの「今」から身をしりぞけ、「トナム語リ伝ヘタルトヤ」と言って結ぶ。「つまり昔の話さ」と涼しい顔をする。この終結部の形式は明かに起語の「今ハ昔」と照応し合って、昔話、或いは世間話というものの一つの典型をなすように思う。どんな短い物語でも、それらは固有の時間(昔)を持ち、それが統一的な話者の時間(今)によって、再構成されていると考えることが出来る。このことは「今昔物語集」を断片的に読むのではなく、持続的に読み進むと甚だ印象的である。 「今昔物語集」は、面白い話を多く含むという点では、新聞の社会面に似通っているが、その本領はあくまで語りぐちのうまさにある。「源氏物語」が時間を描いた小説であるとすれば、「今昔物語集」もまた、まるっきり文学的性格が違うとはいえ、時間を描いたものだと言えないことはないだろう。その点で、週刊誌のトップ記事などと比較しては失礼に当るような、醇乎たる文学作品であることは言うを俟たない。 [#地付き](昭和三十五年三月)     本を愉しむ      1  本を愉しむには色々あって、必ずしも読むばかりが能ではない。珍しい本を買った時は嬉しいものだが、但し安く買うのでなければ愉しみとは言えまい。本がだんだんにたまるのも愉快だし、読まない本をいたずらに積んでおくのでも、当人にとってはちっとも恥ではない。  しかし苦しみということもある。僕のようなアパート暮しでは、本の置き場所に困って、押し入れの中にぶちこむということになる。断っておくが、僕は決して蔵書家ではない。要り用の本をほんの少しばかり持っているだけだが、それでも長い間には、多少は趣味的な本もたまって来る。欲しい本があっても、その本の占めるべき空間ということをまず考えるから、めったに手は出せない。それに近頃、僕は病的なほど出無精だから古本屋を歩きまわることがない。そこで最大の愉しみは、内外の新本古本のカタログを、寝ころがって読むことにきわまる。片手に色鉛筆を持ち、欲しい本にはしるしをつける。さて実際に購入する段になると、空間の問題もあるし、お金の問題もあるし、大抵は沙汰やみだ。こういうのは空想の蔵書とでも言うべきだろう。  昔は、というのは戦争前から戦時中にかけてだが、これまた病的なくらい本郷神田早稲田の古本屋を歩きまわった。特に大学生の頃は、よっぽど暇があり、また足も丈夫だったせいか、毎日のようにてくてくと書棚から書棚を見て歩いた。記憶力も旺盛だったに違いない。というのは、どの本がどの店にあり値段は幾らというのを諳《そら》んじて、実際に買うまでにいろいろ比較し合う。嚢中《のうちゆう》は常に甚だ乏しい。しかし愉しみは、こういうのが一番である。  昭和十四年の三月に立原道造が死んで、暫く後に蔵書の売立があった。山本書店から全集を出す計画があり、その費用を捻出するために堀辰雄の肝煎りで開催されたのだと思う。この時の目録のうちの大物は※[#「區+鳥」、unicode9dd7]外初版本の蒐集で、「東京方眼図」をはじめとしてほとんど網羅し尽していた。散逸するのは惜しいというので、誰か(たしか著名な女流作家だったような気がする)がまとめて買った筈だ。それは今、どこにあるのだろうなどと空想する。  その立原だが、彼は本所深川のあたりを小まめに歩いて、古本屋ばかりでなく、古道具屋などの店先で、二束三文で初版本を手に入れたらしい。その頃は、※[#「區+鳥」、unicode9dd7]外の本は割に安くてどこにでもあったが、それでも立原の買った値段は、一冊が十銭とか二十銭とかいう捨値だったそうだ。  僕はその時、立原の形見の※[#「區+鳥」、unicode9dd7]外が欲しくて欲しくてたまらなかったが、その怨みが長く続いて、ここ数年来少しずつ買い漁っている。しかし「東京方眼図」が五千円もするというのでは、なかなか網羅というわけにはいかない。相変らず懐が乏しいから、数は五六十冊あっても特に値の高い本がだいぶ欠けている。しかしこれなぞも、いずれは揃うだろうと空想するのが、愉しみのうちである。 [#ここから1字下げ] 追記 これを書いたのは十年前で、この「東京方眼図」の値段は今から見れば嘘のように安い。毎年値が上るので、僕もとうとう決心して数年前に三万円ぐらいで買い込んだが今ではその倍になっただろう。呆れたものである。 [#ここで字下げ終わり]      2  僕なんかが本を集める気持をなくしてしまったそもそもの原因は、むかし大学生の頃、鈴木信太郎先生の蔵書をこの眼で見たためである。鈴木先生は名に負う蔵書家で、書斎はすなわち蔵の中にあり、蔵はすべてこれ書棚である。「万巻の書は蔵にあり」というのは僕の出た高等学校の寮歌の一節で、当時その一節のみを高歌放吟して買えない本の憂さを晴らしていたものだが、大学にはいって、先生のお宅でそれを実感として味わった。  しかも先生の蔵書というのは、すべて稀書珍本ならざるはなく、中でも貴重なマラルメの初版本なんぞは桐の箱におさまっている。こうなっては、学生は手に取って押しいただくばかり、とても先生の向うを張って本を集める気になんかなりはしない。ことのついでに、学者になりたいという気もおのずから消滅してしまった。  最近出版された先生の「記憶の蜃気楼」は、僕もさっそく一本をあがなったが、中に「蔵書の再検討」と題する一篇がある。奥ゆかしいことに、先生はそこで僅かに二冊の書物にしか触れられていない。もう少し再検討されて、無尽蔵の珍しい書物を紹介して下さったら、後進を裨益《ひえき》すること多大であろう。  僕の見るところでは、人に人徳あれば本もまたこれに従うということがある。本の集まるのは金と根気ばかりでなく、その人に巣くう本の虫が本を呼ぶのである。鈴木先生のところに、フランス出来の珍本が翕然《きゆうぜん》と押しかけるのも故なきことではない。但しこういうことがある。僕は当時、たまたま古本屋の店先でアルベール・ビロオの「七色の悦び」を安く手に入れた。百二十四部限定の一冊。この作者は二流の詩人だが、みずから「シック」社を経営し、植字印刷造本まで自分でやってのけている。ところが素人の悲しさ、この本は十ページも落丁があって、その正誤表がおしまいに附いている、という変てこな本である。  そこで先生のところへ意気揚々と報告にまかり出た。 「しかし君、そんな筈はないよ。」 「でも本当です。」 「いや、あの本が私のところ以外に日本にある筈はない。」  というわけで歯が立たない。やっぱりこういう信念がなければ本は集まらないものかと、この時初めて会得した。  残念ながら僕は、フランス文学関係で桐の箱におさめるに足りる本は、一冊も持っていない。我が国にいても珍本が手に入ることは、例えばボードレールの「悪の華」初版本および再版本を古本屋で見つけた人があり、その時、鈴木先生がおくれをとって切歯扼腕された話は、前述の「記憶の蜃気楼」に見られる。翻《ひるがえ》って僕の手元にあるのは、せいぜいボードレールが「悪の華」初版発行の一年前に出した、ポオの翻訳「意想外の物語」の初版ぐらいにすぎない。最近ミシェル・ビュトールがこの本を論じて一冊の研究書を出したらしいから、そのうちに値が出るのが愉しみというものである。 [#ここから1字下げ] 追記 ビュトールのは題名が単数で原書が複数なのとは違っていた。これは才人ビュトールの才器を示したあっと驚くボードレール論で、僕の早呑み込みというわけだった。ついでながらこの「意想外の物語」は、その後友人から再版本を貰った。初版再版と揃って、これが「悪の華」なら大した値打だろうと詰らぬことを考えている。 [#ここで字下げ終わり]      3  本を愉しむ最たるものは、自分で本をつくることにあるだろう。  昭和十六年に、僕は大学を出てやっとのことで日伊協会というところに口を見つけた。日伊文化協定なんてもののあった時代だが、勤めは甚だのん気で、別室に退役軍人の常務理事がいても、事務当局は給仕まで入れて十人足らず、大して仕事があるわけではない。主事は僕より三四年前に、大学の美術史を出たM氏で、現に芸大の教授である。名前を書いてもいいのだが、ちょっと遠慮しよう。イタリアから帰朝したばかりで、美術論文を執筆中だった。  タイピストが二人いて、英文の方はインテリのお嬢さん、邦文の方は和服すがたの下町娘で、花が咲いたようである。ところが英文のタイプライターがいつも忙しそうに働いているので、どういうわけかと睨んでみると、どうやらM氏の命令で、氏の物した論文をタイプに叩いているらしい。それなら僕もというわけで、邦文タイピストを口説きおとした。  その当時書いていた詩を、綺麗な和紙を手に入れて、それにタイプしてもらった。暇な時にとはいっても、執務時間中であることは間違いない。とうとうM氏に見つかって、お目玉を頂戴したが、夫子みずからと較べ合せて、不公平きわまりないと慨嘆した。それでも四十八頁ばかりの瀟洒《しようしや》たる小型詩集を二冊か三冊つくり、みずからページを折り表紙をつけて、暫く掌中の珠と愛玩した覚えがある。  戦後、久しぶりに信濃追分に、その頃まだ元気だった堀辰雄を訪ねた。何か欲しい本があったらあげようと言われて、書き込みのある「物語の女」を下さいと堀さんに言ったら、あれは困るよと断られた。  堀さんが亡くなられてから、未亡人に哀願してとうとう宿願を達した。野田書房の限定版だが、これは「物語の女」を「菜穂子」に書きあらためるに当って堀さんが使用したもので、薄い色鉛筆で欄外に細かい書き込みがある。つまり創作の秘密をうかがい知ることが出来るから、初版だけの値打にとどまらない。  ところが残念なことに、色鉛筆の色がまことに薄い。年月が経つにつれて、いよいよ消えもいりなん風情であるから、めったに開くことも出来ない。だから持っているということだけで安心して、決定稿との差異を詳しく調べてみるまでにはいたらない。  こういう愉しみの他に、期待の愉しみというのもある。戦後、市川に住んでいた永井荷風の宅へ本泥棒がはいり、獲物を古本屋へ売りとばした。荷風はさっそく取り戻したらしいが、数冊は人手に渡り、僕の若い友人のO君も、その古本屋からボードレールの「悪の華」を手に入れた。という話のついでに、何なら先生にあげてもいいやと言ったから、間髪を容れず、貰ったと叫んだ。O君はしまったという顔をして、それから一向に忘れたふりをしているが、一体荷風の手沢本はどんなものだろうかと、想像するだけでも僕はぞくぞくして来るのである。 [#ここから1字下げ] 追記 実際に本を貰ってみたら、これが実に詰らない本だった。中身もお粗末だし荷風の手沢本である証拠は何もない。O君に代償をいろいろせしめられただけ損をした。 [#ここで字下げ終わり]      4  昔は作家がそれぞれ個性を持つように、その出した本の外見にも個性があった。例えば泉鏡花や永井荷風の本は、その一冊一冊がすべて著者らしい個性で統一されていて、出版社が違っていても、おしなべて同じ著者の本であることを直に感じさせた。それ故、一人の作家の本を集めると、それらがふえるに従って、そこに調和のとれた別天地がつくられた。  僕は大学を出たばかりのころ、神戸に竹中郁さんを訪ねたことがある。そして硝子張りの綺麗な本箱の中に、荷風の本だけがずらりと並んでいるのを見て、荷風の趣味のよさを感じると共に、熱心な蒐集家にこうして揃えられている作家の幸福をも感じた。何しろこんなにたくさんの荷風の本を一度に見たことはなかったから、僕は暫くぼうっとなっていたようだ。特に籾山《もみやま》書店から出版されたものは、初版と縮刷版とを問わず、どれも粋《いき》である。僕はそれ以後、竹中さんにずっとお会いしていないが、あの蔵書は今でも無事かしらと、時々思い出したりする。  僕の高等学校の頃の友人で、当時から木下杢太郎に凝っていた男が、「食後の唄」を初めとして、全作品を集めていた。それを見せられた時にも、僕はぼうっとなって、急にその男が偉いような気がした。彼はその後医者となり、今では当時の文学趣味もなくなっているだろうが、先日久しぶりに電話して杢太郎はどうしたと訊いてみたら、得意げな声で、まだあるよと答えた。しあわせな男である。  というような昔の作家たちと較べると、今では、その本を端から集めようと思い立つような作家はだいぶ少くなった。つまり、そういう気を読者に起させるためには、その作家が個性的であること、装幀に特色があること、作品の内容にもむらがないこと、等々の条件が必要である。その中で装幀という点に、ちょっと眼を向けてみよう。  荷風の本をたくさん出した籾山書店は、その他の著者の場合でも、すべてこの書店のものであることを示す一種の特徴を持っていた。後に胡蝶本と呼ばれているシリーズなんかは、著者の有名無名に関りなく読者の蒐集癖をこそぐった。その後、第一書房からぞくぞくと出た本も、それらしいシックな味を持っていたし、野田書房や版画荘なども、間違いようのない風情をそなえていた。そこに著者の持ち味を加えて、両方の個性がぶつかり合うところに面白い効果が生れた。  今では、出版社の個性もだいぶ薄れたようである。本の装幀が、画家の描いた絵表紙に多くを依存する結果、どこの本屋さんの本も牧場の羊のようによく似ている。本来はそういう場合でも、著者と画家との角逐《かくちく》が見られるべき筈なのに、画家の方に大して熱がなくて、本の内容と裏腹なのが多い。一つには本がたくさん出すぎるから、出版社の方でもいちいち凝ってはいられないし、著者の方でもあまり趣味的なことを言う暇がないのだろう。新書や文庫や講座や全集ばかりはやる時代だから、それもしかたがないのだろうか。 [#地付き](昭和三十六年四月)  [#ここから1字下げ] 追記 杢太郎を集めていた友人は山本浩といって、一緒に戸田《へだ》で弓を引いていた仲間である。その後会った時に訊いてみたら、杢太郎の本のうち、鈴木三重吉の出した「現代名作集」の一冊、「穀倉」というのだけは持っていなかったから、これはめったにない本だと自慢をして僕の蔵書から献呈した。その後、年に一度会うや会わずで無沙汰をしていたら、去年の春、肺炎であっというまに亡くなったそうである。しかしいまだに彼が死んだという実感がなくて、二十歳《はたち》の頃の顔が眼に浮んで来る。 [#地付き](昭和四十六年一月)  [#ここで字下げ終わり]    推理小説とSF  推理小説は依然として大流行である。そして確実に大衆文学の一翼を担うようになった。もっとも中村真一郎の近著「小説入門」を見ると、日本の小説の現状は、純文学、大衆小説、推理小説の三つの分野に分れるそうである。そうなると、もう一翼なんてものではない。肩を並べる勢いというほかはない。現にある若い推理作家は、これが本物のシリアスな文学だと信じている。勇壮活溌で羨ましい。  推理小説がこんなに流行している原因の一つは、これが風俗小説の代用品として読まれていることにあろう。風俗小説はもともと純文学のうちでも、最も大衆文学に近い存在である。ディッキンズやバルザックは特別な例かもしれないが、我が国でも「金色夜叉」や「不如帰」や「青春」が大衆小説なみに扱われたのは、その風俗的興味が読者に受けたことも、理由の一つに数えられるだろう。現代の推理小説は、その多くが、風俗的なパターンの上に立って犯罪事件を取り扱っているから、読者の眼は一種の面白い絵巻物を見るように、水平に、作者の筆のあとについていく。その意味では、推理小説は映画やテレヴィの原作というにすぎない。小説には小説固有の、一人だけの愉しみがあることは勿論だが、余分なところを刈り込めば、ちゃんと一時間物のテレヴィなり、二時間あまりのシネスコなりに、おさまってしまうことは確実である。もしこれが水平にではなく、垂直に、読者の心を沈めて行くようなものであれば、推理小説は確かに文学になるだろう。  推理小説は犯罪を、それも殺人を、主として描くのだから、つまりは生死の問題に関っている。現代は、ありがたいことに平和の時代で、多くの人は核戦争の恐怖を忘れて、ささやかな刺戟を求めながら生きているのだから、推理小説に現れる死は、当人と何の関係もなく、痛くも痒くもない。時代劇や西部劇で、悪人やインディアンがばったばったと殺されるのと同じである。つまり推理小説の被害者は「物」にすぎない。これがもし「人間」であれば、たとえ吹けば飛ぶような存在でも、そこに人間的現実が、従ってまた運命が、示される筈だ。ディッキンズの小説でもバルザックの小説でも、しばしば犯罪が扱われるが、そこには風俗的に水平に展開して行くものがある以上、悪人の異常な心理を追って、垂直に下降して行く何かがある。推理小説の分野でも、例えば私が傑作と呼んで憚らないロス・マクドナルドの「ギャルトン事件」や「ファーガスン事件」には、こうした運命の感覚がある。そこのところを掴まない限り、推理小説は風俗小説のただの平べったい模造品にすぎないだろう。  ところで近来、少しずつはやり出して来たものに、SF(サイエンス・フィクション)というジャンルがある。空想科学小説と偉そうに言うより、まだ読み物といった程度を出ていない。この方は推理小説と違って、多くは遠い未来に舞台を設定しているから、風俗小説の代用品としてあるわけではない。つまり現代とは無関係に、人間の未来像を見せてくれるので、そこに作者が楽観的であるか悲観的であるかによって、たいそうな違いが出て来る。  従って根本的には、これは人間の運命を、垂直に掘り下げる(というより、幻視的に抽象する)結果として生れたものである。人類は核戦争を避けられるか。次の大戦が始まれば、人類は滅亡するか、生き残れるか。地球は一つの平和社会になり得るか。未来の人間たちは宇宙にどのような建設と破壊とを試みるか。——ここには無限の題材があり、しかもそれらは作者がこの現代をどう見ているか、つまり彼の世界観と密接に関係しているのである。  ここで少し脱線すれば、実は私は、五年ばかり前に、SFを一つだけペンネームで書いたことがある。私のSFは、恒星プロクシマを探検に行く宇宙船の話だった。一人称で書くことにしたので、なぜ主人公が日本語を用いるのかという点に、大いにこだわった。その結果、こういう手を用いた。その頃(幾世紀か後の話である)地球人はすっかり混血して国家意識はなく、新しい世界語を用いているが、彼らの間に最も流行している趣味は、すたれてしまった過去の言語の研究である。中でも一番むずかしいと言われる日本語を、主人公が勉強中なのだから、それを用いて日記をつけたとしても不思議ではない、という設定である。  それにつけても、目下SFはもっぱらアメリカ産で、次いでソヴィエト産と、この二国の専売だから、世界語が英語かロシア語でも、向うの作者たちにとっては当然かもしれない。しかし私は、核実験を平然と続けているこの二国が、世界語を掌握するのは面白くない。アメリカ産のSFを読んで、私がいつも顰蹙《ひんしゆく》するのは、未来の地球人がどれもアメリカ人の顔をしていることである。  推理小説の流行の次に、SFの番が来ることも充分考えられる。推理小説は風俗的な犯罪を扱うが、SFは未来の人間を、つまりは人類の運命を扱うのだから、どうもこの方が規模壮大である。但し推理小説を書きとばすほど楽ではあるまい。勇敢なる推理作家諸君、一つやってみませんか。 [#地付き](昭和三十七年十月)     枕頭の書  枕頭の書というのは、本来の意味は愛読の書ということに違いない。しかし私がここで言うのは、文字通り枕のほとりに置いて寝ながら読む本のことである。とすれば睡眠促進用であることは言うを俟たない。  誰にでも癖があり、その癖が昂じると性格の一部となる。私には本を手に取ると横になって読むという癖があり、それは私の無精者だという性格をつくっている。いや、ひょっとすると私がものぐさであるために、やたらに寝転ぶ癖が生じ、そのために本を読む際にも自《おのずか》ら引繰り返るのかもしれない。癖と性格との先後を争ってもしかたがないが、とにかく机に向って行儀正しく書を繙《ひもと》くなどということはまず稀である。後頭部に何かが接触していなければ(何かというのは、枕なら柔かいにきまっていようが、私の場合に必ずしも枕とは限らないから。そのことは後で述べる)、どうも頭の中にはいって来ないところがある。しかしそうそう寝てばかりもいられず、起きて本を読むこともないわけではない、そのために読んだ本の内容が引力の作用で脳髄からすべり落ち、従って中身がちっとも身につかないということがあるのかもしれない。先日も難解なマラルメの註釈書を寝ながら読んでいたが引掛ったところで字引きを取って来て、ついでに原本の詩集を運んで来たが、仰向に寝たまま三冊の書物を交互に操《あやつ》るのは大へん面倒くさく、かつ私の両腕の力にも限度があって、とうとう起き上ってその三冊を机の上に運んだ。水平の位置から垂直の位置に変ったためかどうかは知らないが、改めて机に向って研究してみてもその註釈はちっとも面白くなく、一日経ったらもう忘れてしまった。マラルメは夜ごと机の上に白紙をひろげ、ランプの明りが窓から射し込む暁の光に薄らぐまで苦吟したような詩人だから、寝ながら読んで分るような生やさしい代物ではない。きっと私に祟ったのだろうと思っている。  さて話をもとへ戻すと、要するに私は寝ながら本を読むという癖があるから、枕頭の書というのはすべて、いよいよ寝ようという時のための本である。ここでまた註を入れれば、寝るのには夜寝るのと昼寝るのとある。普通は前者を指すこと勿論である。そこでもしもその枕頭の書が面白すぎれば、つい夜ふかしをして翌日の仕事に差支えるということになるだろう。私は推理小説にはまあ通の方で、数年間にわたって或る出版社が、そこで出している推理小説のシリーズを、一月分の四五冊ずつ纏めて寄贈してくれていたが、その小包が到着するや、全冊を読み終るまでの数日間は枕頭の書はそのシリーズが独占した。大して面白くないものなら途中でやめて眠ることも出来るが、これがもし傑作に行き当るとそう簡単に寝るわけにはいかない。ついつい読み耽って、窓の外が白々明けになるというマラルメ的体験をこちらも味わうことになった。マラルメなどを引合いに出してはまったく申訳のないような仕儀である。私の勉学がちっとも捗らないのをその出版社が憐れんだものか、この頃になってさっぱり送って来なくなった。従って私も推理小説に通ではなくなった。しかしこれは向うも損をせず、こちらも夜ふかしをせず、お互いに得をしたというものであろう。  そこで私の枕頭の書は、何よりも催眠的効果のあるものに限る。とすると例えば古本屋のカタログとか、レコードの新譜カタログなどは打ってつけだが、どうも書物とは言えまい。それに欲しい古本なりレコードなりを発見すると、かっとのぼせて眼が冴えてしまう恐れがある。そこで私がしばしば用い、人にもすすめるというのは語学の入門書である。実益があって眠くなるという一石二鳥で、これにまさるものを知らない。  私は学生時分から語学というものに奇妙な興味を抱いていた。大急ぎで註を入れれば、これは私が語学に堪能だという意味では決してない。生かじりで、下手の横好き。専門以外に、読めるようなものは一つもありはしない。学生時代には少しばかり熱心にロシア語をやったが、今では小説の題名をかすかに覚えている程度である。その他は、並べ立てるのも恥ずかしいがギリシャ語、ラテン語、ノルウェイ語、イタリア語から安南語に及んだ。今ではすっかり忘れてしまった。なぜ忘れたか。その理由は簡単である。これらの語学の初等文法はみな嘗ての私の枕頭の書であって、動詞の変化なぞを諳《そら》んじているうちに、いつしかうとうとして無何有《むかう》の郷《さと》に遊んでしまう。従っていつまで経っても一冊の文法書が終らない。しかし人聞きのいい趣味と、まさにぐっすり眠れる実益とを、兼ねそなえているではないか。  数年前にエジプトやオリエントの美術に少しばかり凝ったことがあって、大冊のエジプト語文法を買い込んだ。イギリスの学者アラン・ガーディナーの名著で、一冊のうちにアルファベットから文法も字引きもみんな備わっている。私は初夏の頃、畳の上に引繰り返ってそれを読み始めたが、重さは重し、しかも大きさは枕ぐらいと来ているから、手に支えるよりは後頭部にあてがう方が自然である。そこでとうとう枕頭の書と言わんよりは枕書《ヽヽ》そのものとなってしまった。  私は夏に限らず、暇さえあれば昼寝をするという癖がある。しかし特に初夏の涼しい風に吹かれながら、眠ってもよし眠らなくてもよしという気分で、畳の上に数冊の書物を積んでごろ寝をし、二三冊を枕がわりにして(エジプト語文法なら一冊で足りるが)面白そうな本を手に取るのは無上の快楽だと信じている。そのために、これは夏休みの昼寝用ときめて本を買い込むことさえある。今年の夏のためには、既に菅茶山の「黄葉夕陽村舎詩」を用意してあるが、先頃京都に行った折、古本屋で希仏対訳の「ギリシャ詞華集」を見つけて買って帰った。いずれも本は軽く、中身は名著であること疑いなく、しかも実益としてすやすや眠ること請合いという昼寝用の枕頭の書である。ただし本当に読むかどうかは、その時になってみなければ分らない。 [#地付き](昭和四十三年四月)  [#改ページ] [#小見出し]  文人雅人    夷斎先生      一、伝説  石川淳さんは即ち夷斎先生である。今どきこんな洒落れた雅号を持つほどの文人は尠いだろうから、石川さんの周辺におのずから一種の伝説が生れるとしても当然かもしれない。石川さんが敗戦後いち早く出版された創作集は「黄金伝説」と題されていたが、要《かなめ》をなすべき同題の短篇はこの集の中に見当らなかった。これは何でも進駐軍の命令によって省かれたとかで、著者の意嚮によるわけではなかった(と後になって分った)が、肝心の一篇を欠いた「黄金伝説」というのは、なかなか象徴的である。石川さんの文学たるや容易に真意を捕捉しがたく、水に映る影ばかり見せて本体をくらましているようなところがある。手妻つかい(とこれは石川淳の語彙を借りて)の本領はここのところにも示されている。  伝説は色々あるらしいが、その一つに夷斎先生が梯子酒のあげく薄ぎたない飲み屋で管を巻き、某氏と口論してその飲み屋の二階から投げ飛ばしたとか投げ飛ばされたとかいうのが有名である。僕はその真偽を知らない。しかし夷斎先生は酒癖が悪く直にからむから用心せよというのは、先生に附き合わされる以前から僕の耳にはいっていた。何でも物の本によれば、石川淳は無頼派というのに属するのだそうで、この伝説は無頼派というのにふさわしいように見える。  僕を石川さんに紹介したのは窪田啓作である。窪田に拠れば、世に石川淳ほどの紳士はいない。靴は編上靴しか履かず、しょっちゅう一流のホテルに滞在し、しかも何処へ行くにも大名行列だそうである。以上二つのまったく相反する伝説を聞いていたから、初めて高輪のお宅を訪ねた時にはびくびくしていた。昭和二十七年に僕は「風土」という初めての長篇を出して石川さんに送ったところ、折返しすこぶる長文の読後感が来て、それが九分九厘まで滔々たる悪口で埋められていた。その後のことだっただけに、僕がびくびくして出掛けたのも無理はないだろう。しかし石川さんは上機嫌で、まことに優しかった。  昭和二十九年の秋の初めごろ、清水町のお宅を訪ねたことがある。NHKが教養大学といったような企画を立て、石川さんに講演を頼んだところ、聞き役を用意するならやってもよいという返事で、その聞き役に僕が指名された。たしかその打合せか何かの用で行ったのだろうと思う。書斎に通されたが、家来がいなくてもてなしも出来ないからと言うので、すぐさま荻窪通りの小さな鰻屋へと連れ出された。因みに家来というのは奥さんのこと。その書斎には和書の帙が少しばかり隅にあるだけで、清潔をきわめていたし、また、机の上に書きかけの原稿が載っていたがそこに直しが一つもなかったのも印象的だった。  鰻屋は閑散として相客は一人もなかった。秋めいた午後の三時頃で、白っぽい道を車の走る音ばかりが妙にひっそりと響く。そこに石川さんが大音声で、 「おい、一番上等の鰻を持って来い。」  僕はそこで一番上等の鰻でビールを御馳走になり、hospitality の何たるかをしみじみと会得した。ラジオの方は即興で行きましょうということで、打合せらしいことは何一つしなかった。  この教養大学の番組は三十分四回つづきで、それを二回分ずつ二回にわたって録音した。とても素面じゃ出来ないことに意見が一致したので、ビールを飲みながら雑談をし、いい加減お神酒《みき》が廻ったところで係員が録音を開始する。ところが僕の方に計画性がなくて、出たとこ勝負で思いついたことを口に出すだけだから、折角の機会なのに、文学史的資料に供せられるような話にはならない。そのうちに石川さんは酔っぱらって来て、勝手な気焔を吐くから聞き役が口を入れる隙がない。二度目の時は話が小説論になり、石川さんが大いに僕を素人扱いして苛めるので、無念残念、聞き役も少しは気骨のあるところを見せて演説をぶとうと決心したとたんに、「はい、時間です、」と係員に言われた。口惜しいけれど、相手のタイミングがいいのだから、もう追いつかない。作品同様に、座談に於ても切味は無類、僕ひとり天下に恥をさらした。(この年十二月に放送されたこの時の録音テープはNHKにも残っていないそうだから、つまりは旅の恥である。)  こういう紳士と紳士との附き合いだったから、酒癖の悪いという方はまるで知らなかったが、それから三四年して、とうとう絡まれた。「お前みたいな素人には分るめえが、」という白《せりふ》がやたらに飛び出すので、お人柄《ひとがら》が悪いですねえとひやかすつもりでいてもその機会がない。或る時渋谷の小さな飲み屋で出くわしたが、石川さんの隣に三好達治さんがいるのに気がついたので、機先を制して、三好さんにいっぱしの議論を吹き掛けることにした。段々に熱が入ろうというところで石川さんが横の方から睨みながら、「こいつは素人でね、」とやたらに半畳を入れる。そこでとうとう折角の熱が褪めてしまった。  考えてみると、初めのうちは夷斎学人との附き合いで、後の方は石川淳との附き合いである。絡まれた時の方が好感が持てるというのはちょっと変だが、酔っぱらって、五尺の君子がエネルギイに充ち満ちているのを見るのは爽快きわまりない。石川さんは附き合いのいい人だから、伝説はまだぞくぞくとある筈である。 [#地付き](昭和三十六年七月)       二、自由人  石川淳先生の知遇を得たのは、僕がまだ療養所にいて、最初の長篇「風土」の初版を献呈したところ、長文にわたる懇切叮嚀な返事を頂いたことに始まっている。  恭々しく先生とお呼び申し上げるのは、この時、僕が大いに感激したせいだが、実はこの長い長い手紙は悉く(数行の讃辞はあったかもしれないが)眼を覆いたくなるばかりの悪口に継ぐ悪口で充されていた、というような記憶が今でもある。そこで、僕は石川淳の批評眼に大いに服した。小説家として仰ぎ見ることは既に「普賢」の昔に溯っている。  これはもう十数年も昔のことだが、それ以後、石川さんとは君子の交りで(と言えば、こちらも君子になるから誤用かもしれぬ。しかし水魚の交りというのも不遜であろう)、会えば、必ず談論風発、まず清談という感じであった。僕の見る限り、石川さんは日本風に言えば文人であり、外国風に言えば紳士、honnete homme であった。太宰治、織田作之助と共に戦後無頼派というジャンルに分類されるのは、甚だ不思議であると思っていた。  以上のように過去形を用いたのは、一挙に認識を覆《くつがえ》されるような事件が生じたからである。  もう五六年ほどになろうか、文芸春秋社が新社屋に引越してからのことだが、僕は梅崎春生に連れられて新しい文春クラブに一杯飲みに行った。ふと見ると遠くの席に石川さんが奥さんと悠々杯を汲み交しているので、ちょっと顔を出そうと僕が言うと、梅崎が、よせよせ、あれは酒癖が悪いから近づくな、と僕をたしなめた。そんなことは信じられん、僕なら大丈夫だ、一緒に行こう、と無理に誘って、二人して石川さんのテーブルに合流した。  石川さんの御機嫌は例の如くであると思っているうちに、少しずつ風向きが変って来た。お前(おめえと発音する)の小説は下手だなあ、あれあ素人の書くもんだ、というあたりから始まって、学はなし、書くものはまずいし、取柄はないのだそうである。それまで無言を守っていた梅崎がとうとう見るに見かねて、おい出よう、とさっさと逃げ出したから、僕もすごすごと退散したが、それから二人で新宿へ行って大いに痛飲した。  石川さんは酔っぱらうといつもああだよ、と梅崎が教えてくれたが、なるほど三舎を避けるわけだ。思えばそれ迄は、僕は病後ゆえあまり酒を嗜むところを見せなかったので、石川さんの方が遠慮していたものであろう。つまりこの事件は、僕をも健康人なみに遇してくれた証拠というものであったろう。  しかしその後も、僕は石川さんと会って、清談を交すこともあれば、こっぴどく絡まれることもある。要は、その時の石川さんの酒量によるので、御本人は天衣無縫である。無頼派というのは、どうもやはり当らない気がする。酒を飲んで管を巻くのが無頼派なら、天下の文士はおおかた無頼派である。  石川さんは浅草の生れだそうだが、昔話というものをしたことがない。或る雑誌の編輯者に、石川さんの自伝を書かせたら面白いよ、と智慧を貸したが、実現不能だった。石川さんに拠れば、久保田万太郎の浅草は浅草ではないそうだ。永井荷風、川端康成、高見順、武田麟太郎などの浅草も、単なる風俗にすぎないと言うだろう。では、夫子そのひとの浅草はと言えば、これがさっぱり読ませてもらえない。ということは、石川さんにとって、故郷というものが、彼の文学の中心を占めているのではないことを意味していよう。  石川さんの文学は、思うに、故郷喪失者の文学であろう。戦後の風俗を綴った作品はいずれも好評だったが、中身は「普賢」の昔に変らぬ観念小説で、それは現に此所にある者の精神が彼方に思い描いた幻影のアラベスクである。舞台は常に nowhere であり、それは anywhere に通じている。要するに、彼は孤独人であり、自由人である。およそ酒を飲むなら、自由人として、清談もよし、絡むもよし、その時の心の状態のまにまに飲むべきであろう。と、こういう雑な文章を綴るうち、そぞろ石川さんと一献傾けたくなった。いずれ機会があったら大いに絡み合いましょう。 [#地付き](昭和三十八年十月)     川上澄生さんのこと  この三月に日本橋の白木屋の画廊で、川上澄生さんの個展があった。その会場で、僕は初めて川上さんにお会いした。  川上さんの名前を初めて知ったのは、恐らくは萩原朔太郎の「猫町」と「郷愁の詩人与謝蕪村」の装幀によってだったろうと思う。僕の学生時代のことで、朔太郎の詩に対する共感がいつのまにか川上さんの版画の方にも及んで、当時版画荘から出ていた川上さんの絵本「ゑげれすいろは人物」とか「変なリイドル」とかの類を端から集めた。稚拙な味のあるエグゾチスムが何とも言えず気に入った。  この話は既に別に書いたことがあるが、戦争中に僕は詩を書いていて、その僅かばかりの詩を、昭和二十三年に北海道の帯広で本にした。たまたまその土地に疎開して、僕は中学校の英語教師をしていた。そこで識り合いになった藤本善雄君という若い友人がひどく熱心に尽力してくれた結果だったが、何しろ帯広で出版と名のつくものはこれが初めてらしくて、印刷やら製本やらに大変苦労をした模様だ。その上僕がせめて詩集だからちっとは贅沢をさせてくれないかと言って、川上さんに装幀を頼もうという無鉄砲なことを考え出した。その頃川上さんも亦北海道に疎開されていたから、僕は我儘なお願いの手紙と詩集の校正刷とを送りつけて返事の来るのを一日千秋の思いで待ち焦れた。何しろ一面識もないのだし、はかばかしいお礼も出来ないことは分っているのだから、気の揉めることおびただしい。すると返事よりも早く、表紙絵、口絵、及び挿絵三葉の版木が届いたのには、文字通り踊り上るほど感激した。口絵は「蝶に乗る美神」と題されて五色刷であり、しかも特製本五十部のために五十枚の手刷木版が加えられていた。もしも挿絵用に上質の紙がなければ、自分のところに余分の手持ちがあるとの添書もあって、藤本君が有難いと大声で叫んだことも忘れられない。お蔭で僕の詩集「ある青春」は、ちょっとした豪華版として出版されたが、この恩義は終世忘れることが出来ない。  ましてやお礼と言ったら、藤本君がじゃがいもの一俵も送ってくれたかしら。  さてそれからもう十年である。川上さんは宇都宮に移られ、僕は東京に戻ったものの長らく療養所生活を送り、不本意にも御無沙汰を続けてしまった。すると或る朝、ふと古新聞の片隅に川上澄生版画展の記事を見つけたのだから、これはじっとしていられない。しかもその日が展覧会の最終日である。さっそく車を飛ばせた。  しかし車の途中で段々に気が重くなって、とても川上さんは僕の名前なんか覚えてはいないだろうと考え出した。それでなくても初対面の人に会うのはびくびくする僕のことだから、実は川上さんが会場にいなければいいなとまで思うようになった。ところが、「少々昔噺」に載っていたのだったか「川上君近影」という自画像にそっくりの同じ人が、椅子に悠然と腰を下し、しかもその傍らに宇都宮高等学校の卒業生とも覚しい女の子が話を交しているとなれば、まさに間違いようもない。そこで恐る恐る自己紹介に及ぶと、言下に覚えていますと答えられたのでほっとした。  それから安心してかつ談じかつ作品を拝見した。南蛮船や長崎風俗、地図やランプなどの主題が次から次に展開し、渾然として一体をなすと最早昔でもなく今でもなく、西洋でもなく日本でもない、一種眩暈的な空想の世界が現出する。強烈なもの、新奇なもの、絢爛たるものは此所にはあるまい。その代り作者に密着して有無を言わさぬ芸術三昧の境地が、豊かに息づいている。僕は幻想的画風の画家たちを特に愛するが、川上さんは海彼岸の芸術家たちに較べて毫もひけを取らぬすぐれた版画家である。しかも実物は村夫子然として、田舎の女学校の先生然として(悪口ばかり言って大変悪いけど)風采の上らぬおじいさんである。この人はきっと芸術家として生一本なように、家庭に於ても学校に於てもとても真面目な人なのに違いない、だから僕みたいな無名の詩人が頼んだ時でも快く装幀を引き受けて下さったのだな、と僕は考え、考えているうちにむやみと嬉しくなって来て、僕は今日はとても嬉しいんです、と言った。 [#地付き](昭和三十四年五月)     仲間の面々      ——「一九四六」の三人  仲間について書けという厳命である。何の仲間かと問い返すと「マチネ・ポエチック」でもいいし「方舟」でもいいが、三秀才というのはどうです、と言って「群像」編輯部のH君がにやにや笑った。こういう厭がらせは純真なH君のよくするところではあるまいから、てっきりO君の差し金と睨んだ。昔の僕なら、何が秀才だ馬鹿にするなと癇癪を起すところだが、近頃は気が弱くて、言を左右にしているうちに何となく承知した形になってしまった。あの男は気がいいから二時間もねばればうんと言う筈だと、O君が予言したそうだ。ますます面白くない。 「一九四六・文学的考察」という本が出たのは一九四七年、著者は加藤周一と中村真一郎と僕との三人である。それ以後は何かと言えば三人束にされて、三秀才などという片腹いたい評語も生れた。こいつは褒め言葉では毛頭ない、ひやかし半分の悪口もいいところである。それがいまだに続いているのだからがっかりする。 「一九四六」は、三人がそれぞれのエッセイを持ち寄った合著で、他人が書いたものには責任がないようにちゃんと署名がしてある。従って内容を仔細に読めば、一篇ずつに個人差があることは見易い道理だが、どうしてか一緒くたに扱われて、文体までそっくりだなどと言われた。それというのも、僕等が同じ高等学校同じ大学を出て、兵隊へは行かず、本ばかり読んでいて、何となく威勢よさそうに見えたせいだろう。意見もおおよそのところでは一致していた。勿論三人とも生意気で、鼻柱が強かったことは認める。しかし若いうちから老成しても始まるまいから、ちっとは生意気だったとしても御勘弁願いたい。  物換り星移ってここに十五年、少しは情勢もおだやかになったかしらん、どうして風当りの強いこと昔と大して選ぶところはないようだ。中村の「恋の泉」は中身の値打以下に評価され、加藤は外国ぼけして日本文学の情勢判断が甘いなどと言われる。出る杭は打たれるの譬で、僕のように鳴かず飛ばずでいれば波風も立たないが(多少の飛ばっちりはしかたがない)、加藤や中村は見た眼が派手だから、つまらぬ誤解を受けている面もあるようだ。  加藤周一は「一九四六」の当時から秀才の見本のようなもので、一手に悪口を引き受けていた。一体彼のどこがそんなに人の気に障ったのだろう。彼の合理主義は徹底しているから、歯に衣を着せない、要らざる附き合いはしない、人情は振り廻さない、事務的である。戦後の混乱期に、本屋さんが潰れて稿料や印税を取り損った覚えは誰にでもあるものだが、加藤に限ってそんなへまは一度もない。取るものは取る。しかし約束したものは必ず書く。彼は紳士である。ハイカラである。読書術の大家で、英独仏語に堪能である。音楽美術にも造詣が深い。つまり申し分がないので、そこのところから逆に人が申し分をつけることになるらしい。  今は廃業したが、彼はれっきとした東大医学部出身で、血液学で博士号を取った。昔は聴診器を首からぶら下げて、おっかない顔をしていた。僕の方は久しい間「患者学」を専攻したから、彼が僕の主治医だった。彼の医者としての腕前の程はよく知らないが、確かに頼りにはなった。ただ彼の顔を見ていると、どうも段々に病気が悪くなって行くような錯覚を起し、心理的悲愴感に打たれることが多かった。医者としての本領は臨床よりも研究の方に向いていたかと推察する。このおっかない顔は文学の時でも変らない。  とにかく何をやらせても自信のある男だ。この頃は外国にいることの方が多いが、あれだけ切味のいい頭脳を持っていると、何処の国にいても同じで、何を見ても面白いのだろう。倦怠とか憂愁とかにはあまり縁のなさそうな顔である。  中村真一郎の方はだいぶ違う。彼は寂しがり屋で、愛想もいいし附き合いもいいが、心の底ではいつも憮然として愉しまないのだ。人に好かれる質だから、女性や文学青年に取り巻かれるのも無理はない。しかし徒党を組む気もなければ親分になる気もない。そしてなぜ若い連中に人気があるのかといえば、それは文学に対する彼の情熱がしかあらしめるのである。子供っぽいほどのひたむきな情熱、まるで好きな女にでも対するような、それが彼の骨頂である。とにかくぶっ続けに五時間でも六時間でも文学の話だけをして飽きないのだから、掛値なしに惚れているのである。  そこで僕等三人が落ち合えば(この頃は加藤が留守勝ちなので、前のようにはいかないが)、坐りもあえず果しない議論が続くことになる。三人とも口は悪いし、警句駄洒落を織りまぜて、俎に乗った材料はすべて一刀両断である。隠しマイクでも取りつけられて、お喋りの内容が洩れたために、四面楚歌になったのではなかったかと邪推する位である。お互いの作品についての批評も勿論交される。一般的に言えば、加藤は点が辛く、中村は甘い。そしてこの二人の批評ほど(僕にとって)有益なものはない。気心の知れた同士で、本心をぶっつけ合って批評し合うのだから、たまには火花が散りすぎて、加藤と中村とがそっぽを向き合うこともある。仲間といえば、とかく遊び仲間になりやすいが、僕等のはどうも勉強会の趣きがあるから、こんなことを書けばまたまた秀才呼ばわりをされるかもしれない。 「一九四六」の三人組は、そのあと「マチネ詩集」を出し、同人雑誌「方舟」を出して、仲間の数もふえた。が、「方舟」は二号限りで沈没し、「文学51」は年号通り一年で潰れた。その後、ふえた仲間も次第にしぼんで、窪田啓作はEECの研究にベルギイからフランスに移り住み、原田義人は半途に病で倒れ、白井健三郎はサド裁判の特別弁護人に専念し、矢内原伊作は京都とパリとを往復してジャコメッティのモデルをつとめるといった有様。それに加藤も風の如く来り風の如く去るとあっては、中村と僕とが顔見合せて長嘆息し、ますます文学に忠節を尽して二人だけの勉強会に精を出すのも、時の非運といったものだろう。この頃の二人の合言葉が、何とか雑誌を出せないものかねえというのだから、落ち目もいいところだ。  口惜しいのは原田の死である。原田が生きてさえいればこの原稿も当然彼の役どころで、なに三秀才だってそいつは面白いと、長髪ばらりと掻き上げて引き受けたことだろう。それにしても彼が倒れた時の、加藤と中村との献身ぶりは実に涙ぐましかった。原田は僕等三人の纏め役というか要《かなめ》というか、とにかく「方舟」の船長だった。その原田を喪ったことによって、僕等三人は一層仲良くならざるを得なくなったようである。 [#地付き](昭和三十七年十月)     柳田國男と心情の論理  あなたの枕頭の書は何だとかあなたの愛読書を教えろとかいうアンケートは近頃の流行である。枕頭の書と言えばやはり詩集ということになろうし、万葉集とか唐詩選とかオクスフォード版ギリシャ詞華集とか答えておけば無難である。しかし愛読書となれば、これは散文の方が有力だが、すくなくとも愛読したと誇称するためには、同じ作品を三回以上は読んでいなければならない。これが作品でなく作者を(つまり全作品を)愛読していると言い切るのは従ってたいへん難しいし、私がその全集を殆ど完全に読んだと曲りなりにも言えるのは、ほんの数名の文人にすぎない。  しかし一方に、過去に於て確かに愛読した作品があり、その著者の他の作品を読むことをこれからの愉しみにしているという文人もある。昔読んで面白かったから、いずれ暇になったら他の作品を読むつもりだというのではない。その時々に、気分にまかせて読むが、作品の量が夥しいのでいっかな読み終るということがない。それがまた当方の愉しみでもある。そういう意味での愛読書、というより愛読する文人は(文士と私が言わなかったのはそのためだが)まさに柳田國男である。  初めに読んだのは創元選書で出ていた著作で、その頃私はまだ学生か或いは大学を出たばかりだった。フレイザアやレヴィ=ブリュールなどをそれこそ愛読していて、民俗学というものに興味をもち、柳田民俗学の独特の味わいに魅了された。但しどこまでその本質を理解していたかは疑わしい。戦後は実業之日本社の著作集と角川文庫で出ている十冊ばかりを、古本屋で見つけ出す単行本と共に、その時々に読んで来た。筑摩版の定本柳田國男集はこれからの取っておきである。私の未読の作品がまだまだ恐ろしいほど沢山残っているというのは、実に有難い極みである。  日本への回帰という主題は、我が国の詩人、文士、文人に共通の重要な問題を投げ掛けている。私のように外国文学を専攻した人間が、柳田國男とか折口信夫とか言えば、すぐに年寄くさくなったように思う人もいるが、それは度の強い近視で眼鏡の度が合っていないのである。私たちが日本人である以上は、既に生れた時から日本的民俗と無関係でなかったことは自明であり、私たちの記憶の中に蓄積している民俗学的知識があるのと同時に、魂の中に、ただに一般的な人間としてある以上に日本人としてあることの、不可解な、陰森とした、或る点では気味の悪い澱《よど》みがあること、またそれは、ヨーロッパ人には見当もつかないような清冽な、澄明な、流れでもあることを、私たちは知っているのである。そして生れながらにして私たちが見たり聞いたりしていたこれらの根本的な資質は、私たちが知識によってそれを確かめ、特に学問や文学の方法を外国に学んだことによって、次第に無意識的なものから意識的なものへと転化する。柳田國男の著作は「金枝篇」を知らなくても面白いが、しかし「金枝篇」を読んだことがあれば一層面白いと言える。そういう意味で、私たちは直観的に(つまりごく若くても、——それに子供むきに書かれた著作さえ幾つかある)柳田國男と共に日本人であることを学び得るが、しかし真にこの学者的文人を理解するためには、個人の人間的成長と厖大な学問的知識(特に民俗学周辺の学問と、日本の古典、それも文学に限らず芸能一般に関する)とを必要とする。それは日本への回帰ではなく、初めから日本そのものなのであり、私にとってはもともと此処にいるので、往ったり来たりしているわけではない。  私が柳田國男に学ぶものは、内容によって教えられることは別にして、恐らくその論理と文章とである。柳田的思考とでも言うほかはないその発想は、聯想から聯想を呼び、無尽蔵の知識を繰り出しながら、次第に作者の言わんとする主題を濃くして行く。それはまるで推理小説のようだが、伏線があり、聞き書があり、作者の見聞があり、それらが随筆的になだらかに進行するうちに幾つもの糸が絡み合って、それこそ往ったり来たりしながら一個の作品を織り上げる。どこまでがデータでありどこまでが論証であるか分らないようでいて、作者の主張は、清水の滴るように読者の心に沁み通る。それはヨーロッパ的な論理ではなく、謂わば心情の論理であり、しかもそれを語る文章が、個性の強い、語り物的な文体である。文体の中に既に論理がひそんでいて、しかもそれは我が国の王朝以来の古典的文体を思わせる一種の非論理的な論理、つまり感覚によって頭脳の働きをやわらかく包んだ論理である。実に味読するにふさわしい名文であろう。  数年前に、私の勤めている大学研究室の副手に柳田國男のお孫さんに当るというお嬢さんがいた。私は彼女からしばしば柳田さんの消息を聞いた。一度お会いしてお話を伺いたいものだと思い、彼女の方もいつでも紹介してあげますと言ってくれたが、柳田さんは晩年は気むずかしくおなりのようだったし、こちらは臆病者の出無精と来ているので、なかなか腰が上らなかった。或る時のお嬢さんの話では、一緒に東北を汽車で旅行したことがあり、窓の外に見える風物を見ながら柳田さんの話はそれからそれへと尽きなくて、とても面白かったそうである。何という運のいい人だろうと(もともとお孫さんであることが運のよさの根本なのだが)私は羨望した。おじいさんは近頃物忘れがひどいから、早くいらっしゃった方がいい、と彼女は言ってくれたが、とうとうお目に掛らなかった。心残りなことは沢山あるが、これもその一つである。 [#地付き](昭和三十九年七月)     懐しい鏡花  私は大体が物に熱中するたちだが、むかし高等学校の生徒だった頃に、夜も日も明けずに鏡花に惚れ込んだことがある。初めが浪漫主義で、それが次第にリアリズムなり象徴主義なりへ進むというのは、何も文学史だけのことではない。個人の内部でも同じような進化は起り得るだろう。私は文学史のプログラムに似せて、その頃露伴や一葉や鏡花などの浪漫派の文学が好きだったわけではなく、雑読と濫読との間に、自《おのずか》ら自分の未熟な性情に(何しろまだ二十《はたち》前だった)似つかわしいロマンチックな作家を求めていたというまでである。私は気が多くて、愛読していた作家は浪漫派以外にも幾人もいた。ただ鏡花だけが、ちょっと桁違いに、私を魅了していた。  鏡花の初版本は、現在でも同時代の他の作家たちのものと較べれば比較的低廉なようだが、当時は文句なしに安かった。私は本郷にあった一高の寄宿寮に一年半ほどいて、それから学校が駒場の方へ引越したのだが、本郷の銀魚書窟という薄暗い古本屋へ毎日のように寮から通って、そこにある鏡花の本を端から手に入れた。つまりなけなしのお小遣いで買えるような本ばかりである。和本仕立ての古めかしいのや、雑誌の切抜を合冊にしたのなどが、均一本の棚にいくらでも転がっていて、昭和十年前後のその頃でも、鏡花はもうあまりはやってはいなかったようである。  私は鏡花というと、どういうものか、この銀魚書窟という古本屋のことを思い出す。和書専門で、がらんとした店には殆ど人影がなく、裸電球が乏しい光を投げ掛けている。湿った黴の臭いが鼻をつき、マントを羽織った首筋がぞくぞくする。その中で、私は身体を折り曲げ、現実とは隔絶した別世界が閉じこめられている筈の書物を、期待に胸を踊らせながら、漁り続けていたのだ。  何がそんなに私を駆り立てていたのか。今の少年たちは、もう鏡花なんか読もうともしないだろう。なぜなら彼等の浪漫主義を満足させるためには、もっと安直なものがある。映画やテレヴィのように、努力を必要としないで与えられる陶酔がある。文学でさえも、新仮名新活字で書かれて、内容は平明、何の苦労も要らない。従ってわざわざ鏡花を読むこともないだろうが、しかしその頃でも、鏡花の文章は決して易しくはなかったし、そこに描かれた美は、決して誰にでも理解されるような美ではなかった。鏡花はその当時、既にアナクロニズムだったし、それ故に、かえって時代とは別のところに位置し、現在に於ても古びない何物かを持っているとも言えるのである。私は鏡花の絢爛とした物語を、或る抽象的な時と処との物語として読んでいたような気がする。  鏡花は名文家、或いは美文家と言われているが、リズムと雰囲気とで読ませるその文章の魅力は、文章によって喚起されるものが、決して現実の対象を等身大に示そうとはしていない点にある。人物は善玉と悪玉、或いは美しいものと醜いものに分けられ、舞台は、たとえそれが現実から藉りられた金沢とか日本橋とか吉原とかであっても、実際の場所とは無関係に、ただ同一の名前を持つというにすぎない。普通の小説が多かれ少かれリアリズムの洗礼を受けて、現実と相似の関係に於て小説的現実を成り立たせているのに反して、鏡花の場合には、作者の夢みた現実の他に如何なる現実もない。それが少年の読者であった当時の私には、甚だ魅惑的に映ったに違いない。なぜならば私も亦、現実というものを、いまだ自己の内部に於てしか発見していなかったからである。  従って私は、その頃鏡花に親しんだことを一種の幸福だったと思っている。私は今でも鏡花全集を時々繙きはするが、もう昔のような愛読者ではない。しかしそれは鏡花が少年の読み物だということを意味しないだろう。作者と読者とは一つの出会いであり、機会がなければ遂に無縁だということもあり得る。私はちょうどいい折に鏡花に出会った。私にとって、鏡花は、遠くにある懐しいもの、永遠に少年的なもの、つまり無垢で純粋な魂の憧憬を具象化したものであり、それが私の中の(同時に多くの読者の中の)同じ性情を感動させるのである。私は昔も今も、鏡花がその故郷の金沢を舞台にした「照葉狂言」や「黒百合」や「薬草取」のような作品を特に好むが、それは昔は無意識的に、今は意識的に、私を魂のアルカジアへと誘うものがそこにあるからであろう。乏しい財布の中身を数えながら、うそ寒い古本屋の棚の前に佇んでいた私、黴くさい本を小脇に抱えて、寮の万年床で早くそれを読みたいものと銀杏並木を急いで歩いて行った私、そういう少年の姿が、鏡花の作中人物と重なり合って、私には懐しく思い出されるのである。 [#地付き](昭和三十九年十一月)     芥川龍之介と自殺  ドリュ・ラ・ロシェルに「秘話」Recit secret という四十頁ばかりのエッセイがある。私はそれを読んで芥川龍之介の「或阿呆の一生」や「歯車」を思い浮べた。  ドリュは嘗《かつ》てモンテルランと並び称されたフランスの小説家で、「ジル」や「女たちに覆われた男」などの風俗的な作品を書いた。第一次大戦後、思想上の摸索と彷徨とを続け、ドリオと共にファシストとなり、対独協力の責を負って一九四四年に自殺した。最近になってその文学的業績は徐々に回復されつつあるようだ。  ところで「秘話」は一種の自伝的回想であり、自殺論でもある。彼は既に幼い頃から自殺というオプセッションに取り憑《つ》かれていた。彼が彼の生きていた時代と社会との中で感じざるを得なかった不安は、気質的に彼自身の内部で彼を蝕《むしば》んでいるものでもあった。彼は幾つかの自殺失敗の挿話を克明に語り、また明皙な理智によって、彼の内部のこの病的な誘惑を分析する。このエッセイによって、私たちはドリュの小説の中に(彼の小説は多かれ少かれ自伝的である)潜在している虚無的なデカダンスの鍵を得る。  芥川龍之介の場合に、ドリュほどの振幅はない。ドリュは生活人であり、思想人であり、小説と同様に政治論文も書き、また晩年にはインド哲学にも惹かれていた。しかし芥川は政治とは無縁であり、あくまで書斎の人として「ぼんやりした不安」を感じたにとどまった。彼の「或旧友へ送る手記」は「秘話」と較《くら》べればあまりにも短い。それが如何に真摯《しんし》なものであるとしても、彼の理智は自殺者の心理を「ありのまま」に書くことを許さなかった。  私は何もここにドリュと芥川とを比較しようというのではない。私はただ、ドリュが青年時代から自殺という観念を逃れることが出来ず、作品の多くが死の影のもとに意識的に書かれていたのに対して、芥川はその意識を作品の上にどのように反映させたかを、考えてみたいだけである。芥川は「この二年ばかりの間は死ぬことばかり考へつづけた。」と右の「手記」に書いている。最後の二年には、確かに死の影を宿した「点鬼簿」や「蜃気楼」のような心境的な作品、「河童」のような寓意的な作品がある。しかし最も私の関心を惹くのは「歯車」、そして特に「或阿呆の一生」のような散文詩的な作品である。  この二つの作品は、いずれも切迫した、凄愴《せいそう》な緊張感に包まれて、作者の苦しげな息づかいが伝わって来るようである。私はこの二作を芥川の作品中でも殊に愛しているが、しかしそこに多少の欠点を認めないわけではない。それらはあまりに挿話的であり、小説として構築されていない。自伝的であるとしても、挿話をつなぐのは気分的、神経的な不安であり、思想としての不安ではない。言い換えれば、作者の自己に対する凝視はしばしば咏嘆的、抒情的に流れていて、内部が外界との均衡の上に保たれていず、従って幻覚に近くなるほど感情的である。「或阿呆の一生」は各章が極めて短いし、その連結は一種の心理的聯想に基づいているから、その暫く前に彼が書いたシナリオの「誘惑」や「浅草公園」の形式に似ている。「歯車」の各章はもう少し長いが、これはコントを連結したという感じである。  私は芥川が次第に自己を主人公にした短篇を書くようになったのを、必ずしも我が国特有の私小説、心境小説に彼が傾いたとは見たくない。「私」も亦、初期の fictif な小説の人物たちと同様に、一個の登場人物である。しかしその人物が重苦しい過去の影におびやかされ、刹那の感覚的な美にのみ日常の倦怠を忘れていたとしたなら、それを描き出すためには、もっと別の、もっと客観的な方法があった筈である。「河童」は確かにそのような線に沿っているが、作者は充分に彼のモチイフを持続展開し切れなかった。形式のかるみと内部の重苦しさとが充分に消化し切れなかった。  ドリュの場合に、彼は自殺を思い続けながら、数多い客観的な長篇を書いた。ドリュの主人公たちは、自ら定めた運命から如何にして逃れるかという命題を自己に課しつつ行動する人物である。芥川も亦死を決してから幾つかの作品を書いたに違いないが、その主人公は、自ら定めた運命を甘受することによって、或いはその未来の死を正当化する目的のために、存在している。彼の場合に自殺の最も強い動機は、恐らくは、遺伝的な狂気への恐れであっただろう。それは衰弱した神経の作用であり、形而上的な誘惑ではなかっただろう。  私は何も芥川にないものねだりをしているわけではない。「或阿呆の一生」の終りに近い部分に、制作慾だけは持っているが生活慾は持っていないと、或る大学生に語る挿話がある。彼は最後まですぐれた作品を書き続けた。しかしその場合に、自殺さえも、彼の制作慾のモチイフというにすぎなかった。彼が紛れもない芸術家であり、文学のためにその一生を悉《ことごと》く費したと感じられるだけに、私はドリュの場合と較べて、一層芥川を哀惜せずにはいられないのである。 [#地付き](昭和三十九年十二月)     堀辰雄に学んだこと  私が初めて堀辰雄に会ったのは、昭和十六年の夏である。その年の春私は大学を卒業し、日伊協会というところに勤めていた。夏になって休暇をもらい、軽井沢へ出掛けて行き、中村真一郎の紹介で、森達郎という医学部の学生の持っていた別荘に滞在した。この別荘はベア・ハウス(熊の家)と渾名《あだな》されていて、若い連中のたまり場だったが、そこに堀さんのお弟子である野村英夫も泊っていた。森達郎もまた堀さんに心酔していた。中村は学生時代から立原道造とは親しかったらしいが、立原の先輩格である堀さんとは面識がなかったと自分で書いている。しかしこの年(及び次の昭和十七年)の夏、ベア・ハウスは軽井沢の堀さんの別荘の出店《でみせ》の感があって、われわれは群をなして堀さんの一四一二番の別荘に遊びに行ったり、また堀さんの方で散歩がてらベア・ハウスへ足を運ぶということがあった。私が堀さんを識ったのはその時である。  こういうことをまず書いたのは、私はその時まで、堀辰雄の作品にはあらかた親しんでいたが、実際に作者に会ったことはなかった。従って私は抽象的に作品そのものを考えたり論じたりしていたから、日本の小説家というものの実体をまるで知らなかった。私は初めて堀さんによってそれを知り、いまだに小説家というものの理想像を思い浮べると堀さんのことを想い起す。  従って昭和十六年以前の堀さんの作品を、私はその作者を識らずに読んでいた。私は中村真一郎とは大学のフランス文学科の同期であり、二人とも堀さんが興味を持っていたフランスの作家、ラディゲや、モーリアックや、プルーストなどに関心があり、またドイツの詩人カロッサや、リルケなどをも愛読していた。これらの異邦の作家たちと堀さんとの間には、単なる影響というのでなしに、微妙に相通じるものがある。そこで我々は、ラディゲの「ドルジェル伯の舞踏会」と同じ次元で「聖家族」を、プルーストの「スワン家の方へ」と同じ次元で「美しい村」を、モーリアックの論文と同じ次元で堀さんのエッセイを、リルケの詩と同じ次元で「風立ちぬ」を、カロッサの「幼年時代」と同じ次元で堀さんの同名の小説を、それぞれ読んだのである。もとより堀さんの作品には、年代的な進展というものがあり、決してそれぞれの作品が対比さるべき異邦の作品を型取っているわけではない。しかしそれにしても、我々は堀さんを一人の小説家として、外国の作家を読むように読んだ、横文字の本を読むのと同じ緊張度に於て読んだ、と言うことが出来る。それは堀さんの小説は、もとより日本の現実の上に立った、美しい日本語の小説ではあったが、我々の生意気な鑑賞眼に耐えるだけのものを(何しろ我々は毎日横文字の本ばかり読んでいる生意気な大学生だった)充分に、充分すぎる程に、含んでいたのである。 「聖家族」は短い小説で、ラディゲとは必ずしも似ていない。ラディゲの作品ほどの心理的なふくらみがなく、小林秀雄の評のように「むずかしい詰め将棋をなんとかかんとか詰ましちゃったような」ところがある。しかしこれほど西欧の小説の骨格を見事に踏まえているものは、当時他に類がなかった。小説とはこういうふうに(但しもう少しふくらませて)書くものだという教訓を、私たちは得たようである。そしてこの作品からあと、堀辰雄は小説家志望の文学青年に、お手本のような小説を次々に書いてくれた。 「風立ちぬ」は作者の身辺に題材を仰いだものだが、私は何しろ身辺のことなどは知らなかったから、一つの虚構としてこれを読んだ。そしてその迫真的な悲劇性に強く感動した。それはこの小説が、人間の魂を微妙な色相《いろあい》によって内部から描き出そうとしているからである。僅か二名の人物によって演じられるドラマ、しかもワキは途中で消えてしまい、ほとんどシテひとりでこの魂の劇は保たれている。この場合、魂の苦悩をこれだけ冷静に見抜くためには、精神の鋭い緊張が伴っていなければならない。小説家は深い柔軟な魂と、厳しく知的な精神との両者を併せ持ち、しかも全体の構成ときめの細かい細部とにそれらが沁みわたっていなければならない。この小説は、リルケの詩が与えるものとはまた別の、もっと小説的な建築の上に立っている。私はそういうことを感じ、しかしこれはこれで完成したものだから、我々は(未来の小説家であるところの我々は)もっと別の方向へ進まなければならない、と思った。しかし堀さん自身もそのことは感じ取っていたに違いない。堀さんの次の大作は、我々がやられたと叫んだ「菜穂子」であったから。しかしこの作品についてはここに述べない。  堀さんから私が学んだのは、一種の魂のリアリズムといったものである。私はそれを自分の小説の中心に据えて小説を書き始めた。昭和十六年の夏、私は「風土」という長篇小説の発端に取りかかったが、それを決心したのには、恐らく同じ夏に堀さんを識ったことが、作用していたのだろう。堀さんの方向に沿って、堀さんとは違ったものを書くこと。それは容易ではない課題だったし、私が完成するまでに尚も十年の歳月を要した。  私が堀さんを識ったころから、新しい作品の発表は少くなった。その年の冬「曠野」が発表され、翌年の夏「花を持てる女」が発表された。私は「曠野」には、これまた一種の悽愴なドラマを感じたことを覚えている。話そのものは「今昔物語」にあるから少しも珍しくはなかったが、例えば芥川龍之介が「今昔」に取材した短篇に較べると、ここには魂の呻くような喘ぎが聞えている。あの穏やかな、やさしい人柄のなかに隠されている魂の苦しみは、一体どのようなものだろうかと、今では作者を識っているだけに、私は訝《いぶか》しく思った。そして「花を持てる女」を読むことによって、人生というのは一見穏やかに見える場合にも、その蔭にむごたらしい波瀾を含むものだということを、あらためて感じた。しかも作者はつつましくその波瀾を語っているのである。声が低く身振りが小さいだけに、それは一層強く迫って来る。そして人生が泉のように、汲《く》めば汲むほどに深く、冷たく、悲しいものであることを、人は次第に知って行くのである。私も亦、堀さんと初めて会った頃には、そういうことを知らなかった。 [#地付き](昭和四十年十月)     折口信夫と古代への指向  私も亦「古代研究」によって折口信夫のひそかな信奉者となった一人である。昔まだ旧制の高等学校の生徒だった時分、「海やまのあひだ」を改造文庫の一冊で愛読したことがある。しかしその頃釈迢空と折口信夫とが同一人であることを知らず、従ってまたこれらの短歌の背後に深い学識が隠されていることも知らなかった。漸くこの二つの名前が一つに結びつくようになってからも、主著である「古代研究」は容易に古本屋の店頭に現れず、それは名のみ高くして手に入れることの出来ない|夢の書物《ヽヽヽヽ》ともいうべき範疇に属していた。従って私は、どうやら柳田國男よりもあとに折口信夫に親しんだようである。私が「古代研究」を遂に読むことが出来たのは、元版の全集が出てからのことにすぎず、それは文字通り寝食を忘れさせる程の興味津々たる書物だった。私はもとより民俗学に対しても国文学に対しても素人であるから、自分の方に引きつけて、謂わば趣味的に読んでいることを白状する。そしてそういう素人の分際から言えば、柳田國男を読むことによって折口信夫が分り、折口信夫を読むことによって柳田國男が分るという面がある。それは何も両者の学者的態度や学問的方法を比較検討して両者の不足分を補足し合せるという意味からではない。そんな大それた考えは毛頭ない。ただこの二人の中には、お互いにお互いの註解として役立つ部分が多いということを言いたいだけである。  柳田國男の方法は、数多い材料が空間的にひろがって採集され、それらは時間的に系統づけられることに目的があり、まるで無数のこんぐらがった糸が次第に解きほぐされるように、遂には一つの明かな太い線として結論づけられる。即ちすべての時間的空間的材料は現在に向って網をしぼられて来る。研究の対象が過去に向う時でも、それは現在という結果を招来すべき原因として探究されている。こういう大雑把な言いかたが許されるならば、柳田國男を読む愉しみは、数多い材料が分析につれて次第に明確になって行くその過程にある。イメージからイメージへの移り行き、その聯想的な(謂わば俳諧的な、附合《つけあい》的な)面白さにある。  それに反して折口信夫の方法は、遥かに求心的であり、あらゆる材料は過去に向って一直線に溯行する。たとえ現在を論じている時でも、そのイメージの中には影のようにもう一つのイメージが揺曳している。それは古代のイメージである。折口信夫の中には常に文学の発生という根本問題があり、材料を出来る限りその原形との相違によって眺めようとする無意識の願望が潜んでいる。それは一種のロマンチックな願望と言ってもよい。従って読者にとっての愉しみは、このような古代のイメージを文章の背後に読み取ることにある。作者が低声であればある程、それは音楽のように響いている。  私は「日本文学啓蒙」を昭和二十五年の朝日新聞社版で読み、また元版全集で再読した。この本はそうした折口信夫の特徴を極めてよく示していると思う。それはこの内容の配列のしかたに於てである。 「日本文学啓蒙」は一種の文学史である。作者のあとがきによれば、旅を愛した著者が、特に信濃の各地で頼まれて講じた文学史の連続講演の筆記録を集めたもので、上世日本、王朝、後期王朝、室町時代、江戸時代の各篇から成り立ち、鎌倉時代は「一等不得手であった」という理由で含まれていない。それらの講義の時期は、分っているのもあればそうでないのもあり、必ずしも年代順に行われたわけではない。  ところが目次を見れば明かなように、この本は頭に「日本文学の本質」という序論を掲げたあとは、まったく時代を逆にして配置されている。即ち江戸時代が最初にあって、上世日本の文学が最後にある。これは文学史としては奇矯も甚しいが、それが読んでいて少しも気にならないから不思議である。というよりも、これが当然の配列だと思うようになって来る。序論の「日本文学の本質」に既に明かに示されているように、著者はその「本質」を「日本の文学の発生前に溯って」考える必要があると言う。しかし「発生前」のことはこの書物では取り扱われていない。但し、それは直接取り扱われていないというだけで、「言葉以前の文学」のイメージはしばしば「言葉の文学」の前後左右に現れて来る。そこが折口信夫の魅力であり、読者が注意深く読んで行く限り、この時代を溯行するという奇矯な方法が、最もふさわしい、というよりも無二の方法であることを、自《おのずか》ら看て取ることが出来ると思う。それぞれ別々の時期になされた、別々の時代の文学史の講義が、こういう秩序を与えられたことによって、古代への指向という作者の思念を明かに読者に伝えるのである。  折口信夫が詩人であったことは、その詩的作品によって当然証明されるが、散文的な研究論文に於ても、彼の詩的世界は遺憾なく発揮されている。そしてこの詩的世界の中核をなすものは、恐らくは「妣《はは》が国」というイメージではないかと私は考えている。 [#地付き](昭和四十一年八月朔、追分にて)     花の縁  水上勉君は即ち「勉《べん》ちゃん」である。これは私にとってだけのことなのかどうかは知らない。しかしたまたま彼の噂が出ると、誰しもが勉ちゃんと気安く口にするような気がする。私は彼と同年輩だから、まあ勉ちゃんと呼んでも申訣は立つが、もっと若い人が親しそうに勉ちゃんと言っているのを聞いても、悪い気はしない。人徳といったようなものがそこにはある。  その私にしても、勉ちゃんとそれほど親しく附き合っているわけではない。出版記念会などで顔を合す程度、但し一度私が信州岩村田の病院に呻吟していた頃、勉ちゃんと中村真一郎(これは中学生の時分から識っているから真ちゃんだが、さすがにこの年でちゃん附けでもあるまいからやめにした。とすれば、私がちゃん附けで呼ぶのは彼一人である)その二人連れが講演旅行の途中だと言って見舞に寄ってくれた。私はこういうことには弱いから、今でも勉ちゃんに負目のようなものを感じている。  さて今年の春、私は京都に花見に行こうと思い立ち、勉ちゃんの教えを乞いに彼の家を訪問した。彼の方は成城町の御殿のような屋敷に住み、私は祖師ヶ谷田圃に借家住いの身で、目と鼻ほどに近いもののお互いに忙しい身だから往来《ゆきき》することはない。それが或る夜、成城の桜並木を偵察に行ったついでに、ついふらふらと足が向いてしまった。  一体花見などという風流韻事は、私とはさして縁のなかったことで、これも年のせいかもしれないと嘆かわしいが、桜に凝ることは近頃の流行らしく、上は里見、小林秀雄両氏から下は水上勉に瀬戸内晴美女史まで、しきりにその噂を聞く。笹部新太郎氏の「桜男行状」が発行後十年で今や珍本どころかその道の聖書のようになった世の中だから、単なる物好きというだけのことではあるまい。桜は「もののあわれ」を知る日本人の専売特許のようなもので、この頃のように名木老樹が尠くなって来れば、千里の道を遠しとせず見物に行きたくなるのは、文芸に携《たずさ》わる者にとっては当然の義務というような気もする。しかもせっかく出掛けて行ったところで、花の見頃にうまく行きあえるかどうか。見損えば一年待たなければならないところにも、スリルはある。  桜に凝っている人は大勢いるものの、我が勉ちゃんはこの道の先達《せんだつ》と聞いたのが、私の訪問の目的である。大いにもてなされて色々聞かされたが、当方が酒に弱いのでだんだんに酔っぱらい、話の方はあらかた忘れてしまった。ただ京都で会って一緒に見に行きましょうという約束だけは覚えていた。  そのあと私は京都に一週間ばかし滞在し、友達の車を徴発して毎日のように見物に歩いた。最大の目的地は丹波の常照皇寺のしだれ桜である。若い友人の、これも桜気違いのG君というのが東京からやって来て私に合流し、彼の表現によれば「愚者をしりえに擁して京洛を北に走る」ということになった。同行は国文学専攻のM君、これが助手席におさまり、その友人の中国文学のF君、これが運転手(よく考えてみれば、四人乗りの車に前に二人うしろに二人乗ったわけだから、しりえの愚者には私もはいることになる。とすればこの表現はG君ではなく、国文学者か中国文学者の口から出たものであろう)。微雨を冒して一時間半、目指す常照皇寺はまさに丹波の山の中に寂然と佇んでいた。その日は四月十一日木曜日だったが、九重桜と呼ばれる天然記念物のしだれ桜は、はっと息を呑む美しさ。微雨の中の二分咲き、紅《くれない》の蕾が柳のように垂れた枝にびっしりとついていて、ほんの少々開きかけている。境内には、他のお客は数えるほどしかいない。勉ちゃんに教わっていたので、和尚さんに面会を申し込むことにした。というのはここの住職はむかし勉ちゃんの兄弟子だったとか。変ったお人と聞いていたが、近頃の客は花見というと飲んだり食ったりで、花を愛することを知らないというお説教から、これもあんたがたが詰らぬものを書くせいで俗人ばらがやって来るのだと叱られた。私に関してはまったくの寃罪《えんざい》である。そして和尚さん曰《いわ》く、今ぐらいが一番いいところで、雨があがれば明日は満開になる。すると花が白っぽくなる。私でさえも一番いいところを見そこなうこともありますのじゃ。辞してもう一度花の前に立てば、小一時間ばかりの間に前よりもやや開いて三分というところ、紅《くれない》したたるという感じであった。  次の日はよく晴れた。私は別の車を徴発して琵琶湖の北岸|海津《かいず》にある樹齢四百年という彼岸桜の、ほぼ満開なのを見た。ついでに寄った彦根城も花に埋もれていた。  その翌日、今度はJ書院の車で、またまた常照皇寺に行ったというのは、こちらも愚者にかぶれて、どうせなら満開のしだれ桜を見たいという俗っぽい考えを起したからである。折しも土曜日、茶店は出る、酒盛はある、境内は人に埋まり、和尚さんが嘆いたのも無理はない。そして桜はまさに満開で白い雲のように浮び、紅のあとはどこにもなかった。しかし決して失望したわけではない。それどころか感嘆これを久しうした。ただ三分咲きの方が、なるほど更によかったと認識したまでのことである。  勉ちゃんは私が京を去る日に着いたらしい。従って我々は行き違いで行を共にすることが出来なかった。しかし花の縁でまた一段と勉ちゃんに親しみを覚えるようになった。年に一度の花の盛りにめぐりあうのも縁、よい友達にめぐりあうのも縁である。 [#地付き](昭和四十三年四月)     内田百さんの本  私は内田百さんとは一面識もない。しかしその著作を通しただけでもまんざら他人のような気がしないし、その人格にいたっては大いに敬服している。百鬼園先生はだいぶつむじ曲りらしいから、変な奴に好かれるのは迷惑至極だと仰せられるかもしれない。しかし好きなものは好き、これは当方の勝手で、妄《みだり》に百さんの容喙を許さない。  ところで一面識もないとは言っても、多少の縁は百さんと私との間に介在する。私は小石川の青柳小学校の出だが、同級にカッパと渾名された友達がいた。頭髪を女の子のお河童頭のように長く延しているから即ちカッパなのだが、ひょっとしたら私の記憶違いでトウフと言ったような気がしないでもない。もし豆腐なら、それは唐助《とうすけ》という名前から発生したものに違いない。この内田唐助という奇抜な名前の持主がつまり百さんの息子で、あいつのお父さんは変った人らしいやと我々ひよこ共が蔭口を叩いていたようである。  小学校で別れて以来、この友達に会ったこともなかったが、昭和二十九年頃、私がサナトリウムを出て杉並の奥に細々と暮していた時に、たまたまバスの中でぱったり出会って久闊を叙したことがある。それからまた今日まで、二度と顔を合せたことがないから、要するに旧友といってもバスの中で立話をしただけの仲と言えよう。小学校の頃にはよく一緒に遊んだが、どんな親父さんなのかはまったく知らなかった。ついでに言えば私の住んでいた雑司ヶ谷のあたりは妙に文士の大勢いるところで、藤森成吉氏の家はほんのそば、その息子とも仲良しだった。この方は小学校が違ったから短い間の附き合いだった。他に小川未明とか菊池寛とかの家が近く、菊池寛だけは散歩をしているところを親父に教わって顔を見たことがある。百さんの家は盲学校のそばで、その辺にはしょっちゅう遊びに行っていたものの文士の顔を見る趣味は小学生にはなかった。しかし百さんが文士であることは何となく弁えていた。  私は百さんの著作にはおおむね通暁しているつもりでいるが、それでも随筆の中には少しくぼやかして書かれているところがあり、それで泡をくったことがある。百さんの息子が病気になり、メロンを食いたいと言ったのにそれを食わせないでいるうちに早死にしたという随筆を読んだ。その息子の年齢を勘考すると、どうも私の旧友であるカッパまたはトウフのような気がして来るし、しかもその息子は戦前、まだ大学の予科ぐらいで死んだことになっている。とすれば私がバスの中で出会ったのは何者ならん、ひょっとしたら幽霊だったのではあるまいか、というのが私の疑惑であり、忽ちにしてぞっとばかり蒼くなった。しかし私が曲りなりにも百文学の通であると自負している以上、まさか大先輩の百鬼園先生に恐れながらと一筆認めて、私は唐助君の旧友ですがバスで出会ったのはあれは幽霊でしょうかと問いただすわけにもいくまい。大体この話は前に他の随筆で読んだ覚えがあるのだから自ら調べるに如かず。そこであちらをめくりこちらをめくりして、漸くのことでこの久吉君が兄、唐助君が弟であることを確認した。恐らくあまり年の離れていない兄弟だったのだろう。ついでに言えば、この久吉君の死の前後を描いた「蜻蛉眠る」という小説があるが、随筆の軽妙洒脱なのとは打って変った、悲痛きわまりない作品である。内田百の文学がどういう地獄を乗り越えて円熟したかを知るためには好都合の小説だが、恐らく著者にとってはあまり人に読ませたくない作品かもしれない。  我ながら勝手なことばかり言っているが、要するに私は百さんの文学に通暁していることを自慢したいだけで、格別の魂胆があるわけではない。しかし通暁の方は証拠が乏しいから、物量の方で行くとすればまず蔵書ということになろう。七八年前に私は信濃追分で病いを養っていたが、その時たしか神戸の黒木書店から、百さんの本を纏めて二十冊ばかり買い込んだ。それからぼつぼつと穴を填めて行ったが、なかなか揃うというわけにはいかない。私は本は好きだが蒐集マニアという程ではないから、格別慌てもしないし、なければないで構わないようなものの、古書の目録にはおのずから気を配っていた。中でも最も目につかないのが「冥途」の初版、大正十一年稲門堂発行のものである。昭和九年の再※[#「厥+りっとう」、unicode5282]版と称する三笠書房発行のものは二冊も持っていて、その一冊を人にあげたりしたが、初版の方はさっぱり。百さん自身も、発行の翌年大震災に遭って紙型まで焼けてしまったと書いている位だから、どうせ実在しないものと諦めていた。 「古書通信」の今年の三月号に、水曜荘文庫の広告があって百さんの本が多量に出ていた。私はすかさず註文して不足の分を取り揃えたが、そこに何と稲門堂版の「冥途」があったので漸くにして姿を見ぬ恋人にめぐり合った。  造本的見地から言えば「旅順入城式」などよりはだいぶ落ちる。それに百先生の独創にかかる各頁に頁づけなしという奇妙な本である。惜しむらくは箱がなく、水曜荘主人からの来書によれば、箱つきは嘗て見たこともないという話であった。この時私がいち早く目録の中の肝心のところを抜いてしまったから、一足おくれて口惜しがった人も多かっただろう。百さんには御慶ノ会、摩阿陀会などがあって門弟の数かぎりなしと聞いているが、その人たちは必ずや百著作の蒐集家だろうと思うから、私のような門外漢が横から手を出して本を集めるのはこれでなかなか難しい。  ところが好運は好運を呼んで、その二月ばかり後に、麦書房の古書案内で今度は箱つき著者署名入りの稲門堂版を見つけ、これまた何なく手に入れた。値段は前とまったく同じである。私は麦書房主人に電話して、あんな珍書にさては値段をつけそこなったな、とからかってやったら、向うはちっとも騒がず、なに箱つきもちょくちょく出ますと言った。因《ちなみ》に値段は四千五百円で、この頃の古書相場から見れば決して高価に過ぎることはあるまい。それならもう一冊見つけて御覧と、すんでで電話口で口が滑りそうになった。  そういうわけで百さんの著作本というのはあと数冊で揃うが、その他に編纂本という種類のものがまだ何冊もあり、これが決して旧作ばかり集めてあるわけではないから、等閑に附していいとは限らない。例えば「御馳走帖」という戦後すぐに出版された編纂本には、附録として岡山での鮨のつくりかたや、「お膳日誌」という昭和十一年頃の毎日の献立などが載っていて、これが滅法おもしろい。他人が何を食っていようと知ったことはないようなものだが、相手が百さんとなると他人のような気がしないから不思議である。暑くて食慾がない時に、私はアペリチフの代りにこの日誌を数頁ほど読むことにしている。その日誌の中にところどころ旧友の唐助君が出て来るから、それで懐しいということもあるのかもしれない。  百さんの本を集めて端から読んでも、百さんのようなうまい文章が書けるとはきまっていない。こういう駄文を草して、旧友の親父さんからどやされはしないかと、目下少し不安である。 [#地付き](昭和四十三年八月)     和様三銃士見立て  昔の話である。礼を失する点があるとしても、時効ということにして大目に見て頂きたい。  私は東大仏文科の出身だが、卒業は太平洋戦争の始まった年だから、東大仏文科の歴史を戦争によって前後に分けるとすれば、まさに前期の殿《しんがり》をつとめたということになろう。戦後は大学制度も変り、最早私たちの頃のように稀少価値によって認められるということがなくなった。しかし当時は卒業後のことは五里霧中で、好きだというただそれだけの理由でフランス文学科を志望したものだ。内心では詩人や小説家になりたいと望んでいたとしても、それは学者になる見込が薄いのと同様に、夢のようなものにすぎなかった。戦争の跫音が次第に迫っていて、何となく追い立てられるような気持で、研究室の書架にある図書を端から借り出して読んでいたような気がする。  私がアレクサンドル・デュマの「三銃士」三部作を読んだのは、この研究室蔵書のコナール版によってだったと思うが、この読書だけはどうも勉強のためとは言い難かった。学生の義務と心得て手当り次第に本を借りて読む、読めばどれも面白い、しかしどんなに面白くてもバルザックやスタンダールは勉強のためである。デュマは……如何せんデュマの場合には、勉強という大義名分が立たないほど面白すぎて、少々うしろめたく、大急ぎで最終巻まで読み通した。もっとも急いだ理由は必ずしもうしろめたかったせいだけではない、途中でやめられなかったのである。  ところで三銃士は、語呂のよいアトス・ポルトス・アラミスの三人で、そこにダルタニヤンが加わってやがて四銃士になるのだが、この三銃士の特徴は既に第一巻七章に手早く説明されていて甚だ印象的である。何も私が繰返すまでもないのだが、簡潔に特徴を述べれば、アトスは由緒正しい貴族で稀に見る立派な人物、ポルトスは肥っていてお喋りで気さくである、アラミスは神学の勉強に打ち込んで聖職者たらんと志している変りだね。三人の間の友情は、彼等の特徴が異っていればいるだけ一層強いという仕組になっている。  私が学生だった頃、東大仏文科は一講座しかなくて、辰野隆教授、鈴木信太郎助教授、それに渡辺一夫・中島健蔵・アンベルクロードの三講師から成っていた。その頃の研究室の懐しい雰囲気については既に多くの人によって書かれているが、実に申し分のない先生がたであったと今でも有難く思っている。今でもと言う以上、当時は三尺下って師の影を踏まずと言うに幾《ちか》かったが、生意気な大学生は「三銃士」を読了するや、たちまち怪しからぬ聯想を敢てした。ポルトス、これは体格から言っても辰野先生に似ている、それにあの名講義、座談の妙。「ポルトスは……喋るのが楽しみで喋り、自分の声に聞き惚れて喋るのである。」アトスは「おのずから備わる気品があり」、「深い教養を身につけ、スコラ哲学にも詳しい」と来ては、鈴木先生ということになろう。アラミスはいつも瞑想に耽ってラテン語の神学書を研究している、これは渡辺先生その人だ。こういうふうに仏文研究室のアトス・ポルトス・アラミスを勝手に命名してこっそり悦に入っていたが、それでは残るダルタニヤンは誰かと考えると、これがまた打ってつけの人物、ケンチこと中島健蔵講師に紛れもなし。猪突猛進、神出鬼没、口も八丁、手も八丁の智勇兼備の侍《さむらい》である。講義時間中にこういうことをこっそり愉しんでいたとは、炯眼《けいがん》の先生がたも御存じなかったでしょう。妄言多謝。 [#地付き](昭和四十三年九月)     会津八一の書  私は書についてはまったくの素人だから、或る意味では好き勝手なことを言っても構わないだろう。そこでこの頃会津八一の書を最も好んでいると公言するわけだが、ただし会津八一の書が傑出していることは既に世評があって、今さら私などが驥尾に附して偉そうなことを言うのは烏滸がましい。私にしても実を言うと会津八一の書を複製にした本を、頁を繰りながらためつすがめつしているだけで、実物などは一幅も持っていない。いつぞや古書展のカタログが来てぜひ買いたいと思っていたら、どうもそれは贋ものらしいと人から注意されて、めっきり自信を喪失した。真贋《しんがん》の区別もつきかねるようでは、好きだという資格を疑われるかもしれない。どっちにしても値段が高すぎれば買えないにきまっているから、会津八一の書が流行してむやみと高いのも気に喰わない。同時代に生きていながら、その風貌に接することが出来なかったというのも、思えば残念である。  それというのも、書は全人格的なものであろうと私は考えるから、その人間の全部を通して書は書として成立するのである。その人の教養とか知識とか言ったもの、またその性格、その生きかた、その風貌から立居振舞まで、すべてが書を通じて迸り出て来ない限り、書はただ小手先の業というにすぎない。私は謂わゆる書家の書は味噌の味噌くさきものとして遠ざける。私の好きなのは本業が別にあって、その本業の方で立派に個性を発揮できる人が、たまたま書に於てもその人の最も良い部分を(本業とはまた違ったふうに)示している、そういう場合である。つまりは文人の書であって、大雅や蕪村のような画家や、良寛のような詩人や、鴎外および漱石のような小説家や、茂吉のような歌人や、——極端に言うならば素人としての書が、私は好きなのである。会津八一の書を素人だなどと言えば怒られるにきまっていようが、私はその点で譲ろうとは思わない。  私のように書に対して何の予備知識も持っていない人間が、会津八一の書を前にして思わず惹きつけられるのは、その書の持つ一種の気魄によってである。気魄というのが曖昧なら、一種の破れかぶれと言ってもよい。会津八一は、若い頃の筆蹟を見ると、生れながらの能筆とは必ずしも言えないようである。磨くうちに次第に玲瓏たる光を発するようになった。それは決して書の稽古だけによって得られたものではあるまい。古美術学者としての会津八一の力量を量ることは私には難しいが、鹿鳴集の歌人としての腕のほどは言わずと知れている。学問や歌は破れかぶれで出来上るものではないが、書は或る意味で偶発性を含んでいる。どれだけの稽古を積んだとしても、いつも同じ字が出来上るとは限らないし、例えば秋艸道人という署名が、与えられた場合ごとに微妙な変化を見せていることによっても証明されるだろう。書は常に一回ごとの真剣勝負であり、そこに無意識が作用する。そして無意識の領域を支配しているのは、作者がそれまでに蓄積した全人格的なものと言うことが出来る。専門の書家であればあくまで意識的に書に対しなければならないが、素人である限りは無意識の助けを借りたところで何も言うことはない。従ってそれを遊びと呼んでもいいだろう。気魄、破れかぶれ、遊び、それが自由無礙の境地に身を置かせる原因である。会津八一の書は、文人の書である前にまず自由人の書であると言い得よう。捉われない魂が一点一劃に滲み出ている。  会津八一の書の特徴はいろいろあるだろう。私などが有難く思うのは、第一にその文字が読みやすいこと、第二に書かれている詩句が、会津八一自身の作の場合はもとより、借りられた場合でも如何にも作者にふさわしいことである。つまらない詩句が書かれていることは決してないし、会津八一の撰になる名句集を読んでいるような気がする。その次に仮名と漢字とのいずれの場合にも、一つ一つの文字にエネルギイが漲っている。仮名は女性的、漢字は男性的なのが普通だが、会津八一が両者を混えて書いても違和感がないのは、そこに平均した力が働いているからであろう。そして全体がこころよい緊張のうちに持続し、私に言わせれば音楽的と称する他はないようなリズムが流れている。しかもこのリズムは一つの仮名、一つの漢字に於ても、その造型の上に感じられるのである。  というようなことを素人の私が言っても、会津八一の書は分析してどうこう論じられるようなものではない。書は中国と日本との特殊な芸術であり、恐らくすべての芸術の中で最も無意識の占める部分の大きな芸術であるに違いない。現代の芸術で直ちに古典に属するようなものは尠いが、会津八一の書はまさにそれであろうかと私は考えている。 [#地付き](昭和四十四年六月)     現世一切夢幻也   語るも詮なきことなりと 如是《によぜ》観ずれば、   現世《げんぜ》 一切 夢幻也。   死を まぬかるる術《すべ》もなく   抗《あらが》ふ手段《てだて》も更になし。   さまらばれ なほ借問す、   ベハーニュの王 ランスロオ   いまは何処《いづこ》ぞ。その祖父《おほぢ》の君また何処。   さはれ 勇武の帝《みかど》シャルルマーニュ いまは何処《いづこ》。  鈴木信太郎先生がこの三月四日に亡くなられてから、私はその著作をあれこれと繙くことで痛惜の念を紛らわしていた。そしてたまたま、先生の数多い訳詩の中から、その精髄とも言うべき数行を選び出す仕事を負わされた。先生の訳詩一篇となれば、ボードレール、マラルメ、ヴェルレーヌからヴァレリーに至る象徴詩人たちの間に、とりわけて先生の本業であったマラルメ詩集のうちに、これを見出すべきだろう。しかしソネといえども相当の行数をかぞえるし、その一節や二節を引用することはかえって礼を失するかと思われる。そこで私は寧ろフランソワ・ヴィヨン全詩集から、私の愛誦する一部分を挙げることにした。  これは遺言詩集の中の「疇昔《いにしへ》の王侯貴人の賦」と呼ばれるものの一節である。ヴィヨンの中で最も有名なのは「去年《こぞ》の雪 いまは何処」という繰返しを持つ「疇昔の美姫の賦」の方だろうが、それと対をなすこのバラードに歌われているのは、ヴィヨン生存の当時、というのは五百年以上も昔のことだが、その勇名がなおも評判されていた王侯たちであったらしい。しかし更に七百年を溯る伝説的なシャルルマーニュ大帝をのぞいて、他の王侯たちの名前は、現代に至るまでに既に殆ど湮滅してしまった。そのことが我々をして、このヴィヨンの咏嘆に一層の感慨を附け加えさせるが、しかしここにあるものは捉えられて獄舎に死を待ち受けている不幸な詩人の、心境そのものである。先生の翻訳は仏典の語調を加味していて、そのことがこの場合いかにもふさわしいようである。  私が東京帝国大学のフランス文学科に入学したのは昭和十三年である。どういう幸運か、この年の鈴木信太郎先生の講義演習は、ヴィヨンは遺言詩集の第一節から始まり、マラルメは詩集巻頭の「不遇の魔」から始まった。従って私たち同期生は高山の麓から一歩一歩山頂を目指して歩むことが出来た。もとより先生に手を引かれ、背中を押され、褒めたりけなしたりされながらである。いや褒められることはあまりに尠く、しょっちゅうからかわれたり、いなされたりしていた。或る時私が secret《スクレ》 という字を誤ってセクレと読んだら、「君はそれを英語だと思っているのかね、」とたしなめられた。当時の先生の英語の発音は明治人らしい猛烈なものだったから、ひょっとしたら先生はシークリットという発音を御存じなかったのかもしれない。  冗談はさておき、先生に教えられて得たものは量り知ることが出来ない。象徴詩を通じて、私は詩を、その読みかたも、その書きかたも、つまり学者として詩を研究するための方法も、詩人として言葉を構築するための技術も、すべて習い覚えることが出来たような気がする。学問の領域に於て、先生の業績はあまりに大きく、私などがかれこれ言うことはまったくない。しかし詩の翻訳については私にも多少の考えがあって、そのために先生の忠実な弟子でありながら、お出入り差止めをくったような気持がしていた。もしも先生がもう少し早く生れていたら、せめて上田敏と時期を同じくしていたらというのが、私の偽らぬ感想である。しかし先生はかねての念願通り、訳詩家としては、マラルメも、「悪の華」も、ヴィヨンも、ヴァレリーも、全訳を果されたのだから、きっと御満足だったろうと思う。不肖の弟子としては、いつかは心からの感謝の気持を申し上げたいと思いながら、遂に生前にその機を逸したことを痛恨せざるを得ないのである。 [#地付き](昭和四十五年三月)     或るレクイエム  私は昨年の夏、持病である胃を悪くして、信州の片田舎にある病院で久しく病を養っていた。そのあとも仕事から遠ざかって静養につとめていたが、今年になってからは先月たまたまインフルエンザに冒されて高熱を発し、またもや床に就いてしまった。生来多病の身としても、どうも少しばかり腑甲斐ないようである。もっぱら家に閉じこもっているから、自然にレコードを掛けることが多いが、この冬しみじみと繰返して聴いたものに、チマローザの「レクイエム」がある。チマローザはスタンダールの読者なら誰でも知っている作曲家だが、この曲は噂のみ高くてレコードに入っていなかった。それをイタリアの指揮者ヴィットリオ・ネグリの手で今回録音された。フィリップスのレコードである。死者の霊を慰めるレクイエムは、モツァルトを初めとしていろいろの傑作があるとしても、長らく埋もれていたチマローザのそれもまた、美しい旋律のうちに深い悲しみを湛えて、人の魂をとらえて離さないものであろう。  私は何も宗教音楽を特に好んでいるわけではない。例えば私はバッハを最も愛するが、それも久しく器楽の独奏曲や室内楽に親しんでから、漸く近頃になってカンタータやマニフィカットのよさがわかって来たという程度である。それなのにチマローザのこのレクイエムにこれほど感動したというのは、或いは私の古い友人である鬼頭哲人君夫妻の死が、私の念頭を去らないでいるせいかもしれない。鬼頭哲人君は長く結核を煩い、昨年の十二月六日に慶応病院で息を引き取った。奥さんの邦子さんはその二月後に当るこの二月六日に、心臓麻痺で不意に亡くなられた。  私は鬼頭君とそれほど近しくしていたとは言えない。三田の出身だし、フランス演劇の専攻だから、私たちの共通の友人である芥川比呂志や白井浩司や堀田善衞などの方が、私よりもずっと親しくしていただろう。私が初めて彼と附き合ったのは、戦争の末期に、日本放送協会の国際局で同僚だった頃である。彼はたしか私より後からそこに勤め出し、私より先に病気のために姿を見せなくなった。しかしその頃の彼の印象は強烈だった。何しろ痩せていて長身のうえ、大きな目玉をぎょろぎょろさせながら実にやさしい声を出す。まったく役者にして舞台に出したらどんなにか立派だろうと、見るたびに思わないことはなかった。私たちの同僚には白井浩司もいたが、鬼頭君も私も結核のために途中から休んでしまったから、白井ひとり後に残ってさぞ苦労をしたことだろう。何しろタイプライターにしがみついてフランス語のニュースをつくり、しかも勤務時間が夕方から夜という変則のものだったから、我々が胸をやられたのは放送局の重労働のせいだと私は固く信じていたが、温厚な鬼頭君はどう思っていたかしらん。  戦争の終った翌年の秋、私は疎開先の北海道から東京まで船でもどって来たが、折からの颱風で船が揺れてやっとの思いで上陸すると、そこでぱったり鬼頭君に出会った。たしかその時はもう邦子さんと一緒だったように思う。彼等も同じ船に乗っていた筈だが、どこから戻って来たのか、その時までどうやって暮していたのか、今では聞いた話をすっかり忘れてしまった。お互いに命があってよかったという感慨だけが、その時の印象として残っている。  私はその後足かけ八年も療養所で暮し、無事に退院してから信濃追分にある山小屋で毎年の夏を過すようになった。あれはたしか昭和三十年頃のことだったと思うが、一夏、鬼頭君夫妻が追分に来て、村のはずれに近い枡形《ますがた》茶屋と呼ばれる家の二階を借りて暮していた。私たち夫婦と鬼頭君たちとはどちらも子供のない同士で、しょっちゅう往ったり来たりしてお喋りに花を咲かせていた。鬼頭君は病後の静養だったのだろう、奥さんがいつも気を使って、少し遠出の散歩というと彼は留守番、奥さんだけが一緒で、何だか誘ったのが気の毒なようだった。仲のよい御夫婦というのは多少とも他人を悩ませるものである。  夏の終りに軽井沢の店が軒なみにバーゲンセールをやる。そのうちに私がひいきにする洋服屋があって、その店をすすめると彼等二人はいそいそと出掛けて行き、午後おそく買物袋をぶら下げて帰って来た。バスを下りてまず私たちのところで店びらきをしようというのである。鬼頭君は、とてもいいズボンがあったと言いながら、あの大きな目玉をぎょろりと剥いてそのズボンを穿いて見せてくれた。その間じゅう邦子さんは嬉しげに笑っていた。鬼頭君がズボンを脱いだり着たりしている滑稽な情景が、今でも彷彿とする。  その夏、近くに売りに出た地所があって、相談のすえ鬼頭君たちと半分ずつ買うことにした。何だか奥さんの方に遺産がはいって、それをもとに買うことにしたそうである。鬼頭君の健康のためにも、早くそこに小舎を建てて暮したいという邦子さんの希望だったらしい。私たちも鬼頭君のような隣人を得たことを幸いに思っていた。  これはもう十五年ばかり昔のことである。その後鬼頭君とは時々会ったり、噂を聞いたりしていたが、彼の結核は容易に根治するにいたらなかったらしい。私は結核の代りに胃を悪くして、その間に五度も入院騒ぎを繰返した。気にはしていながらつい疎遠のままに打過ぎた。そして去年の十二月六日、不意に芥川比呂志が電話を掛けてよこして、その数時間後に鬼頭君の訃《ふ》を聞いた。  お葬式もすんだあとで、邦子さんとうちの細君とはしばしば電話で長い話を交していたが、邦子さんの失望落胆は実に悲痛なものだったらしい。私のような疳癪《かんしやく》もちの病人と違って、鬼頭君は決して奥さんに怒ったことがなく、いつもやさしかったそうだ。口が利けなくなって筆談で意志を通じさせるようになると、思い通りにいかないことがある。そういう時も鬼頭君は薄ら笑いを洩らすだけで、それが身を切られるように辛かったと邦子さんはこぼしていた。長い入院生活のあいだ日夜奥さんに看取られて過したのだから、鬼頭君にしても諦めはついていただろうと思う。  鬼頭君の死後、邦子さんがどのような思いつめた気持でいたのかは知らない。家庭内の事情なども私のあずかり知るところではない。他の人から聞いたところでは、鬼頭君は生前、僕が死んだら邦子は長くは生きられないかもしれない、と言ったそうである。しかし私たち夫婦はまさかこのようなことになるとは思ってもいなかった。追分の土地のことは、我々二人の生きていたしるしとして宜しくお願いします、と邦子さんは謎のようなことをうちの細君に言い残していた。そしてちょうど二月後の命日に、邦子さんは夫のあとを追った。鬼頭君が亡くなる前にカトリックに回心しようとしていたとかで、邦子さんの葬儀は、その遺志でカトリックで行われた。死後受洗とでもいうのだろうか。  邦子さんにとって、夫の死後長く生きのびることと、ああしてすぐに死んで行くことと、どちらがしあわせだったのか、私には判断がつかない。ただ、世の中にはこういう仲のよい夫婦もいると、あらためて思い知らされたような気がする。チマローザの「レクイエム」を聴くたびに、鬼頭君たちのことが惻々《そくそく》として想い起されるのである。 [#地付き](昭和四十六年三月)  [#改ページ] [#小見出し]  身辺一冊の本    東洋的  永井荷風の「つゆのあとさき」を谷崎潤一郎が批評した文章がある。この頃読みかえしてみて面白く思った。  潤一郎は紅葉の硯友社文学から説き起して、西鶴——紅葉の伝統に立つ写実的作品として「つゆのあとさき」を定義し、二十年来の作者の足取を追ってその本質を明かにしているが、僕などの興味を惹くのは、この作品を昔ながらの東洋風な、絵巻物式の書きかたであると見、作者の老成に対し「そゞろに感慨を催さゞるを得ない」とする潤一郎の感慨である。  潤一郎の説明に俟つまでもなく、「水滸伝」や「金瓶梅」のような古来の中国小説が、登場人物を紙細工の人形のように扱って、しばしばやりきれないほどの虚無感を感じさせることは僕等にも経験がある。数多い人物が長たらしい筋の中で様々のドラマを演じながら生きたり死んだりする。それは現実をまるで遊離した架空事であるが、しかし読者が作品の雰囲気の中に入ってしまえば、人形を操る作者の腕前によって傀儡たちも立派に人間として通用して来る。作者の持つ東洋人特有のニヒリズムが、読者の魂の中のニヒリズムを喚び起すせいでもあろう。  潤一郎が「つゆのあとさき」の作者に見たものもこうした東洋的な戯作態度で、登場人物の性格が描けているいないなぞということは問題ではないとする。そして昔の作家が人間を人形の距離にまで遠ざけたり機械的に扱ったりすることは、西洋流に内部へ掘り下げるとかえって嘘らしく見える点からしても、「一理がある」と考えている。  ここで荷風の作品は暫く措くとして、当の潤一郎の作風も、「細雪」に至ってほぼ同じ境地に達したのではないか。「『つゆのあとさき』を読む」は、荷風先生への単なる讃辞ではなく、潤一郎としても言いたいだけのことは言い切っているが、その中にこうした東洋的発想に対し、「私自身もさう云ふ態度を取る者ではないが」と言明している。それなのに「細雪」に於て、果してもう一度同じことが言えるかどうか。どうも僕には、作者が将棋盤の上で雪子という駒を中心にして、作者の愛著措く能わない風景や行事の間に、幾つもの駒を巧みに出し入れしてその効果をゆっくり愉しんでいるような気がする。勿論「つゆのあとさき」とは、作中人物の生活にしろ環境にしろ多くの開きがあるが、しかし傀儡を操るちょっと虚無的な味わいというものは同じようだ。それに「つゆのあとさき」では(一般に荷風の作品では)劇中の主人公が作者自身を思わせるような咏嘆に耽る箇所があるが、その点「細雪」は一層客観的で、一層絵巻物風である。「源氏物語」の影響が云々され易いが、僕にはやはり中国小説的な、東洋的な、作者の老成が見られるようで、「そゞろに感慨を催さゞるを得ない」。  と言っても僕はこうした東洋的な作風を低く見ているわけではない。ただウィリァム・フォークナー以後の現代アメリカ小説家にある一種のアンチ・ヒューマニズムの作風も、やはりこうした虚無感を持っていることを思えば、東洋的というだけでは少しばかり物足りないと考えている。 [#地付き](清瀬・昭和二十四年十一月)     純粋小説  堀辰雄の文学は、青春の香気にあふれるみずみずしい魅力によって、たやすく人をひきつける。その文体は日本文学の伝統を踏まえた欧文脈で、極めて分りやすい上に、季節への鋭い感覚、内面心理の抒情的な陰影、作品の底を流れる作者の暖かい心情など、年少の読者をも、直ちに文学の陶酔境へと誘い寄せるだけのものを持っている。堀辰雄によって初めて文学の眼を開かれた若い人たちは、殊の他に多い。  しかしそうした分りのよさが、一方、かえって堀辰雄の作品を通俗的におとしめる危険もなしとしない。「風立ちぬ」の主人公の純粋さを一種の感傷として受け取る読者、王朝に取材した作品を作者の郷愁とのみ受け取る読者は、堀辰雄の小説構成の理知的な面を、或いは読み落しているのかもしれない。  小説家としての堀辰雄は、その殆ど処女作とも言える「聖家族」に於て既に完璧な小説技術を身につけていた。しかしそれからあと、作者は同じ方向にのみは進まなかった。「聖家族」の作者がフランス風の純粋小説を目標としたことは確実だが、さまざまの道筋を経て行き着いた純粋小説の微細画、「菜穂子」が、作者の野心を全的に実現したものとは言い得ないだろう。健康が許さなかったことも、満ちあふれる感受性がしばしば直接の「感動」によって小説や小品を書かせたことも、——原因はいろいろある。 (返らないことだが、もし堀辰雄が詩作を続けていたなら、そうした感動をすべて詩の方に流し込んで、もっと厳しく、真に小説それ自体がそれのみで立っているような作品を、書き上げることが出来ただろうと思う。)  しかし何と言っても「菜穂子」は堀辰雄の試みた最も冒険的な作品であり、そこに見られる純粋小説の方向に、たとえそれが完全に成功しなかったとしても、堀辰雄の文学の真骨頂があると、従ってまた後進の僕等の学ぶべき点があると、僕は考えるのだが果してどうだろうか。 [#地付き](昭和二十八年六月)     危険な芸術  芥川龍之介と僕との間には一世代の差がある。芥川と僕とをつなぐものは、ただ少年時に購った十巻の普及版全集にすぎない。それさえも僕は戦争で焼いてしまった。しかし眼をつぶると、殆どすべての作品が、奇妙に微細なデテイルを伴って想い起される。それは僕がむかし如何に愛着をもって芥川全集を嗜読したかを示すものだろう。高等学校時代に、神田の本屋で十円の全集を五十銭だけ値切り、その五十銭で円タクに本をのせて家へ帰って来た時の嬉しさは、今も明かに僕の記憶の中にある。それ以来、僕の芥川に対する親近感は冷《さ》めることがない。それは僕が堀辰雄(堀さんは芥川の晩年の弟子だった)に親しくしたことや、葛巻義敏さんに芥川の話を聞いたことや、また僕が芥川比呂志の友人であることとは関係がない。作品を通じてのみ、僕は芥川龍之介に自分に近しいものを感じている。近しいのと同時に一種の反撥するものをも。  芥川龍之介の芸術をもし一言にして尽すならば、僕にとってそれは「文体」である。そしてこの文体の秘密は、それがつくりものである点に懸っている。論理的な文章の中に、詩的な、感覚的なリズムが隠されている。僕は常にこの文体を美しいと思うが、自分でこういう文章を書こうとは思わない。それはあまりにも作者に即しすぎていて、作者一人の眼によってしか現実が見られていない。短篇小説や小品の場合には、それは巧緻な雰囲気をかもし出すが、長篇になると、この文体では長く書けない。僕はしばしば、芥川の文体で物を見、考えるが、書くときは別だ。ただ僕は芥川を読んで、人生が、或いは風景が、逆に芸術を模倣していることを知らされた。試みに、短い文章をでまかせに引いてみよう。 「北風は長い坂の上から時々まつ直に吹き下して来た。墓地の樹木もその度にさあつと葉の落ちた梢を鳴らした。」  これを書いた作者の眼を、僕はしばしば現実の中にあって感じる。そういう芥川は、僕にとって実に親しい。  このことは芥川の「芸術家」に僕が惹かれている証拠だ。芥川龍之介と永井荷風とは、ヨーロッパ的観念の「芸術家」と、江戸末期の戯作者、俳人、狂歌師、漢詩人などに共通した「文人」との、この二つのタイプがほぼ間然するところなく混淆し得た最後の場合であるように思われる。しかしこの二人を悲劇的ならしめるものは、その「文人」意識が常にきびしい「芸術家」意識によって裏打されていたこと、特に芥川に於て、遊びを遊びとして享受することの出来なかった鋭い神経が作用していたことだ。「越し人」の連作は、僕にとって斎藤茂吉の作品以上の切実な芸術的気配を感じさせる。もし彼が「芸術家」に徹したならば、それは新しい文学の境地を彼の前に開いた筈だし、もし「文人」に徹していれば、彼はあれほど痛切に苦しむことはなかった筈である。 「……が、『越し人』等の抒情詩を作り、僅かにこの危機を脱出した。」 「或阿呆の一生」の中のこの文章は、彼が如何にその時、「人生」を重んじていたかを示している。脱出、——しかし芸術家にとっては脱出する道はない。僕は芥川が、最後的に自殺によってこの人生から脱出したと考えることは出来ない。「越し人」のように余技的な作品によってでは人生は脱出し得ないことを暁り、そこから改めて、自らの死によって、芸術家としての自己を完うしようと試みたとしか思われない。  人生とは不条理であり、このことを偉大な詩人たちは誰しも本能的に知っていた。芥川もまた、その人生の途上に、さまざまの苦闘を続けて不条理を超えようとした。しかし彼は最後に、十九世紀ヨーロッパの「芸術のための芸術」の観念にしか、その道を見出し得なかったようだ。最後の年に書かれた作品、例えば「蜃気楼」「河童」「歯車」「或阿呆の一生」等は、彼が如何に人生と闘い、人生に敗れたかを、|意識的に《ヽヽヽヽ》、言い換えれば遺書としてでなく作品として、書きつづったものであり、自負された芸術的意図によって貫き通されている。自殺はその場合一つの効果でしかない。問題は、自殺という前提のもとに、作品を構想すること。たとえ彼が実際に自殺しなかったとしても、自殺を念頭に置いて書かれた晩年の作品は、全集の中でも最も重いのである。  一般に作者最後の作品は、「白鳥の歌」としてその作者の最も円熟した境界を示している。例えば漱石の「明暗」。しかし誰が芥川ほど「歯車」を初めとする数多い遺作、或いは既に遺作的な「大導寺信輔の半生」「点鬼簿」「玄鶴山房」等の佳作を書き得ただろうか。彼が意識的に死を選んだのは、同時に、意識的に作品を選び、かつ書いたことを示している。それは「芸術家」意識が「文人」意識に最後的に打克ったことを示す以外のものではない。芥川の自殺は、人生に対する敗北なのではなく、彼の中の「芸術家」の勝利であると、——僕はこのように考える。  僕が一世代の差があるにも拘らず芥川に親近性を感じるのは、このようなデモンの烈しさに僕が感動し、反面、そこに一つの時代的雰囲気、世紀末、を感じるからである。僕は、或いは僕等は、最早「人生は一行のボードレールにも若かない、」などと言うことは出来ぬ。人生は常に「悪の華」よりも貴重である。しかし人生をボードレール的に、或いは芥川龍之介的に眺めることは、どんなに僕たちにとって魅力だろうか。  ついでに「侏儒の言葉」に倣って、アフォリスムを一つ書いておこう。    芥川龍之介  芸術は危険である。が、危険であるが故に美しい。 [#地付き](昭和二十九年十一月)     鴎外の文章  文章のよしあしというのは、結局読む方の主観に左右されるから、誰が見ても名文だというようなものはあまりないだろう。それに、文章はそれの含まれている作品と従属的な関係にあるから、文章だけはいいが作品としては出来が悪いというのでは滑稽である。一つの作品はそれに固有の、絶対必須の文章を持っている筈で、いつでも同じスタイルでは飽きてしまう。というようなことを前提に置くと、どうもやっぱり、お手本は鴎外ということになるだろう。鴎外の文章は、どんな内容でも自由にこなせる感じがして(その実鴎外は決して、何でも書いたわけでない。題材を厳密に選んでいる)、作者の品格を保ちながら、しかも一篇ごとに微妙に異っている。ちょっと簡単に真似の出来る代物ではない。鴎外の現代小説から、二三の例を引いてみよう。  ……箪笥と箱火鉢との間に、やつと座布団が一枚|布《し》かれる様になつてゐて、そこに為事に出ない間は父親が据わつてをり、留守には母親の据わつてゐる所や、鬢の毛がいつも片頬に垂れ掛つてゐて、肩から襷を脱したことのめつたに無い母親の姿などが、非常な速度を以て入り替りつつ、小さい頭の中に影絵のやうに浮かんで来るのである。(「雁」)  併し純一の目に強い印象を与へたのは、琥珀色の薄皮の底に、表情筋が透いて見えるやうな此女の顔と、いかにも鋭敏らしい目《ま》なざしとであつた。(「青年」)  廊下の硝子障子から差し込む雪明りで、微かではあるが、薄暗い廊下に馴れた目には、何もかも輪廓丈はつきり知れる。一目室内を見込むや否や、お松もお花も一しよに声を立てた。(「心中」)  これは高慢らしい事を書いた。こんな事を書く筈ではなかつた。併し儘よ。一旦書いたものだから消さずに置かう。(「追儺」) [#地付き](昭和三十年四月)     「大菩薩峠」の二三の特徴  中里介山の「大菩薩峠」を、僕はまだ全部読んだわけではないから、正確な感想を述べることは出来ない。中学生の初めの頃、夢中になって一巻また一巻と読み耽ったものだが、それが一体どの辺までだったのか。現在、河出版の第四巻まで、つまり全体の半分までを読み返してみたが、いちいちよく覚えているのには驚いた。それに、話が安房の国に移るあたりまでは、今迄に二三度は読み直した筈だから、我ながら相当の愛読者だと言えるだろう。確かにこれは、魅力のある長篇である。中学生には中学生なりに面白いし、現在の僕にも、それなりに面白い。  そこでこの魅力を分析してみると、僕にとってその第一は、空間小説《ヽヽヽヽ》という点だ。これは難しい術語を使ったのでもなんでもない。文字通り、舞台が空間的に移動するという意味だ。同じ中学生の頃、一九の「膝栗毛」が僕の枕頭の書だったこともあるのだから、空間的な移動のもたらすリズムが、一種のロマンチックな空想を刺戟し、未知なものへの好奇心を喚起したと言えるだろうか。「大菩薩峠」の空間は、甲州に始まって、江戸、京、伊勢、紀州、安房、信濃、というふうに次第にひろがり、さらに駒井甚三郎を通して、その空想は海彼岸にも向けられている。その場合、読者の興味は、出て来る土地を知っていることにあるのではなく、寧ろそれが知らない土地だからこそ、一層の空想をそそられるのだ。作者もこの間の読者心理をよく心得ていて、一九の「膝栗毛」がそうであるように、土地の描写は甚だ概念的であり、登場人物の感覚を通して、新しい土地が紹介される。つまり、人物とともに僕たちも移動するので、そこが一人の作者の書いた、通常の紀行文とは違うところなのだ。同じ江戸でも、道庵先生の住んでいる江戸と、米友の初めて見る江戸とでは違うし、同じ安房の国でも、駒井甚三郎と茂太郎とでは受け取りかたが違う。そして各々の土地は、これら登場人物のそれぞれの感覚の、最大公約数に於て紹介される。ということは、読者の空想に訴える空白の部分があり、そのことが、この小説の中の空間を一層広く感じさせるもとになっているのだ。  第二に、この巨篇は、型《ヽ》(タイプ)|の小説《ヽヽヽ》である。空間小説であることから、必然的に時間的な展開は驚くほど緩慢であり、河出版の第四巻でも、机竜之助の子供はまだやっと四つにしかなっていない。しかるに空間的なひろがりと同じテンポで、登場人物の数のふえかたも目覚ましく、次から次へと新しい人物が顔を出す。そしてこれらの人物は、すべてが型である。ここで何も、近代の小説には性格描写が必要だなどと力むことはないので、人物が型しか描かれていないことは、むしろこの小説の名誉なのだ。なぜなら、人間の真実を追求する場合に、意識の内容を深く掘り下げなければならないのは当然だが、人間の内部という奴は、掘り下げれば掘り下げるほど渾沌とした、不可解な、どれも似たような人間性という代物に突き当ってしまい、個々の人間を区別づける差は、むしろ外側からの、一定の概念による描写の方が、確実な効果を生むからだ。中里介山の採用した方法は、人間の内部の、善悪美醜の入り混った渾沌の相を一人の人間に求めるのではなく、善と悪とは二人の人物に描き分け、美と醜とは二人の人物に描き分けるといったふうな、外面的な方法である。同じ一人の悪人でも、その悪にはさまざまのニュアンスがあるだろうが、作者はそのニュアンスを、別々に肉づけて、机竜之助や、神尾主膳や、がんりきの百蔵などの、違った悪人のタイプを示す。つまり一人の人間で済むところを、三人にも四人にも分裂させる。それ故、どの人物も、その登場した初めの印象から、大して変化するわけではない。道庵先生は、どこに現れても気のいい酔っぱらいだし、駒井甚三郎は、頭脳明晢だが女性にはいつも親切すぎる。従って鮮明な第一印象を読者に与える点に、この作者の非凡な手腕があり、適当にその人物が舞台を休んでいて、再び颯爽と登場して来た時には、読者は思わず待ってましたと声を掛けたくなる。そのわけは、あらゆる人物が、型としてそれぞれ区別され印象づけられているから、謂わば単純明快なのである。  従って第三に、この長篇は観念小説《ヽヽヽヽ》である。作者は地名を按じ、人物を按ずるように、ニヒリズムや、デモクラシイや、封建性や、仏教思想や、鎖国や、文明などを手玉に取る。そして作者は、巻が進むに従って、初めのうちの筋本位の通俗小説から、次第に思想的なもの(たとえ未消化な部分があっても)の興味を増して来たように思われる。これほどの大長篇ともなれば、広い空間の中に、さまざまの型の人物をすれ違わせているだけでは、遂には読者に飽きられる。作者は勿論そのことも計算に入れたのだろうが、しかしこの作品を自分のライフワークだと決心した時から、作者は持っている全部の物を投げ込みたくなったに違いない。従って、そろそろ退屈な部分が多くなり出した第五巻以後が、作者の真骨頂ということになるだろう。何しろ初めに断ったように、僕はまだ終りまで読んだわけではないから、この作品が思想小説として成功しているか否かは、ここではまだ極められない。 [#地付き](昭和三十一年六月)     私の古典「悪の華」  古典というのは誰しもが一度は読むべき作品を言うのだろうから、特に或る個人にとっての古典とはその日常の精神生活に深い影響を与えた作品、或いは与えつつある作品、ということになろう。とすれば僕のような気紛れな雑読家は、その時々の精神の季節につれて、古人の面影が立ち止ったり走り去ったりしているのだから、誰を呼び止めていいのかよく分らない。それを考えるようでは、とても「私の古典」とは呼べないだろうから、思い切って、比較的新しいボードレールの「悪の華」を、ここにあげることにする。  古典としては新しい作品だが、今年は「悪の華」出版百年祭に当る。僕自身にとっても、この作品はもう二十年ばかり、ほとんど座右にあって僕の魂の一部を形成している。そして「悪の華」の与えた影響は、今日までの一世紀の間に、如何に多くの読者を「より高度な美」へ誘ったことだろう。  僕が初めてこの詩集を読んだ高等学校の頃に、果して正確に内容が分っていたかどうかは疑わしい。しかしその美しさ、音楽的な美しさは、極めて自然に耳にはいり、異様な快感を与えた。中学生の頃に「琵琶行」や「長恨歌」を諳誦したように、「旅への誘い」や「秋の歌」を諳誦して、こころよいリズムを愉しんだ。そういう意味では、ボードレールの詩句は平易で初学者にも理解しやすい。僕はまず「悪の華」に詩を学び、それから他の詩人たちの方にさ迷い出た。僕は簡単に卒業したつもりだったが、どうしていまだにその魅力に捕われたままでいる。というのは、こちらの年齢に相応して、「悪の華」が新しい内容を僕の前に繰りひろげるからだ。それは見る者の位置によって、色を変えて輝く宝石のようなものである。 「悪の華」の魅力を分析することは極めて難しい。それは大論文を要求するだろう。しかし一言で言ってしまえば、現在の僕にとっては、魅力は詩人の内的分裂、その二重性の中にある。神への上昇と悪魔への下降、理想と憂愁、夢と現実、快感と深淵、こういった分裂が、その相反する面に於てそれぞれ真実であり、意識の底深く、生と死との窮りまで追求される。ボードレールのどの一行も、この二重の影を映していないものはない。「善に向って歩むにはあまりに不幸」だった詩人は、もっぱら悪魔的とか、デカダンとかいう形容詞を附されて来たが、そうした一面的な見かたはこの詩集の魅力を半減するものである。「悪の華」と並んでその代表作をなす散文詩集「パリの憂愁」を見れば、詩人晩年の心境が如何に貧しく虐げられた人々への憐憫に充ちていたかを知ることが出来る。この散文詩集もまた僕にとっての古典であり、そこに見る暗澹たる心象風景は、常に僕の魂を揺り動かしてやまない。  僕は美しく明るい詩、例えば「ギリシャ詞華集」や「記紀歌謡」の如きものを好む。そこでは僕は平和であり、清潔であり、幸福である。しかしそれはあまりに遠く、僕の心の中の空虚をいつまでも充してはくれない。その時ボードレールの詩集は、僕を現実に連れ戻し、現実の中にあってのかりそめの美に僕を誘う。それは現実からの逃避ではなく、現実そのものの質的転換であり、現実の外に夢があるのではなく、現実を夢に置き代える作用である。しかもボードレールの夢は、「忘れられた過ちによる死刑宣告」という悪夢であり、奇妙な感覚によって、現実の、死の、体臭を、なまなましく感じさせる。僕が惹かれるものは、このような死臭の感覚なのだが、それは逆に人を生に呼び戻すものである。恐らくは、それが、久しい間僕をボードレールに結びつけ、いまだに彼を卒業することの出来ない理由なのだろう。なぜならば人は常に生に脅かされ、生を卒業することは出来ないのだから。 [#地付き](昭和三十二年九月)     現代地獄篇  ウィリァム・フォークナーの特徴を、原稿用紙二枚で分析しろと言われればあやまるほかに手はない。外国人にとって、あの難解なアメリカ語は何よりまずとっつきにくい代物で、フランス語訳とか日本語訳とかの助けを借りなければ、正直なところ僕なんかには歯が立たないようなものだ。それもフォークナー自身が、決して読者のためを思って書いたりなんかしていないのだから、一種の推理小説じみた謎が、全体の構成のみならず、文章のすみずみにまで沁みこんでいるといった具合だ。  しかしその語学的難解さよりも、文学的難解さの方が、いっそう手が込んでいる。フォークナーの持つ人類への信念は、ノーベル賞受賞当時の彼のストックホルムでの講演の中に明かに汲み取れるが、作品に露出した限りでは、彼の立場は反ヒューマニズムの如く見える。人間への(特に南部の白人たちへの)不信が、どの作品にも暗く滲み出ていて、自己の絶望の重みで螺旋形をなして地獄へと堕ちて行く魂の呻き声が、作品の地平線に、絶えず合唱をなして聞えているようだ。このような絶望を耐え忍んで、なお救いを予見している作者の強靭な精神力は、恐るべく巨大なものに違いない。それはアメリカ南部の精神史の上に書かれた人類の象徴的な地獄であり、ダンテ以来の壮大な叙事詩をなすと言っても、言い過ぎではない。  小説家は自己分裂の方向に、小説は非人格化の方向に進んで行くのが、二十世紀小説の一般的傾向だが、フォークナーの創造した登場人物たちは、すべて自己破壊的な能力を本能のように持っている。しかしただそれだけではない。崩れ落ちた、ばらばらの魂の破片の中から何かしら集注的な、善への無意志的な憧憬のようなものが、次第に立ちのぼり始めている。初期の作品(例えば「サンクチュアリ」)と、二十年後に書かれた、その続篇をなす「ある尼僧への鎮魂歌」とを較べてみるならば、フォークナーが「地獄篇」から「煉獄篇」へと歩いて来たことが、おぼろげに分るような気がする。ここから「寓話」の世界を経て彼が何処へ行くのか、この今世紀の代表的な小説家の発展は、ちょっと僕等の端倪《たんげい》を許さないものがあるようだ。 [#地付き](昭和三十三年一月)     「堤中納言物語」 「堤中納言物語」に含まれる十個の短い作品は、今日の眼から見ても、なかなか見事な、巧みに出来上った短篇ばかりである。これらの作品がどういう発想から生じたものか、という点に、ちょっとばかし僕の思いつきを書きつけておきたい。  平安朝の物語には、今は散佚《さんいつ》してしまった長篇が幾つもある筈だから、短篇の方も、「堤中納言物語」のほかに多分色々あったに違いない。しかし今日に於て、長篇と短篇とがジャンルを二分するように、当時に於てもこの二つの形式が競い合っていたと考えることに、僕は俄かに賛成できない。この場合、王朝末期の「今昔物語」や「宇治拾遺物語」のような説話集は、発想が違うから問題としない。謂わゆる後宮の女房の手になる物語類に限っての話である。その時、短篇はどうも長篇の一種の代用品として存在していたのではないかと思う。更に言えば、絵の代用品である。  この当時、文学愛好家は自分の愛する物語を絵巻物の形で座右に置くことを好んだ。その最も代表的な例は「源氏物語絵巻」である。しかし最も古い形態は、原典のうちの印象深い場面を絵に描かせて愛玩したものであろう。それが詞書を伴うようになり、「ことば書かせし絵のまじりたる」(建礼門院右京大夫集)ということになり、遂には絵巻物のように、原典の中の有名な場面を絵に描いたものに、原文の一部をダイジェスト的に詞書としてつけるという形式になった。  そこで、ここにもし野心的な物語作者がいたとして、この絵の代りに、詞書のみで一種の場面をつくるという考えを起したとしたらどうだろうか。彼女は(もとより女房の一人である)文章の持つ魔力を信じて、絵にたよらずに、一つの場面を創作する。その場面が当時はやりの長篇の中の場面に多少とも似通ったとしてもやむを得ない。しかし彼女は絵を不必要とするような、独立した場面を、一種のパロディとして書く。そこから皮肉な、そして劇的な効果が生れて来る。 「堤中納言物語」の多くには、見る場面、それもこっそりと見守る場面が多い。その場合、視点は一定し、時間は現在形で書かれて同時的である。絵巻物の特徴として、一場面の中に推移した時間経過が同時に描かれることがあるが、この短篇集の中には、そうした効果を狙ったものが多い。  しかし決して絵画的なのではない。作者は明かに絵巻物を意識することによって文学の機能というものを信じている。一つの場面は、その前もなくその後もないことによって、かえって一つの長篇を空想させるだけの凝縮した潜在力をそなえている。僕が「堤中納言物語」で特に好きなのはその後味である。「花桜をる少将」にしても、「このついで」にしても、「虫めづる姫君」にしても、いやどれを見ても、終りかたの軽妙なことまさに短篇に特有の面白みであり、それは同時に、絵巻物の一場面の、隅の方に春霞や草花や松の梢などを描いた部分に相当している。「二の巻にあるべし。」という終りかたは、絵巻物なら当然次の場面に続くところだが、ここでは、あとは勝手に想像して下さいというだけのことだ。作者が得意になっている顔が眼に見えるようである。  こんな短い文章では、これ以上詳しいことは書けない。というわけで、思いつきの域を出ないとしてもしかたがない。 [#地付き](昭和三十五年六月)     記紀歌謡四首      やすみしし 我が大君の      遊ばしし 猪《しし》の 病猪《やみしし》の      吼《うた》き恐《かしこ》み 我が逃げ登りし      在峰《ありを》の 榛《はり》の木の枝[#地付き](古事記・九八)       大和《やまと》は 国の真秀《まほ》ろば      畳《たた》なづく 青垣      山籠《やまごも》れる 大和しうるはし[#地付き](古事記・三〇)       命の 全《また》けむ人は      畳薦《たたみこも》 平群《へぐり》の山の      熊白檮《くまかし》が葉を 髻華《うず》に挿《さ》せ その子[#地付き](古事記・三一)       はしけやし 我家《わぎへ》の方《かた》よ 雲居《くもゐ》立ち来も[#地付き](古事記・三二)  「やすみしし我が大君」は、古事記では雄略天皇、日本書紀では天皇に従う臆病者の舎人《とねり》となって作者が違うから、それをどちらの作と取るかで作の感じも自《おのずか》ら違って来よう。ただこの歌を現代人の視点から見ると、如何にもユーモラスである。特に「病猪の吼《うた》き恐《かしこ》み」というところで、鼻息も荒く突進して来る猪の姿と、慌てふためいて樹登りをして逃げる人物の恰好とが、まざまざと眼に見えるようである。この部分を滑稽だと思ってしまえば、初めの「やすみしし我が大君」とか「遊ばしし猪」とかいうのも、それが樹登りの当人だと考えると大層おかしい。つまり現代的解釈に従えば、天皇が自分の経験を客観化して歌ったものと見る方が、何とも言えないユーモラスな味を感じさせる。  しかし記紀歌謡で、ユーモアを意識的に用いたものはまず殆どない。せいぜい自然に滲み出した程度の、巧まざるユーモアの域を出ない。何しろ全体が尊厳を旨とした作品である。とすれば、この歌の「大君」に関する部分は、ユーモアとは無関係であろう。つまりその部分までおかしいというのは、現代人の勝手な解釈であろう。しかし後半は、古代人でもやっぱり滑稽に感じたに違いないから、もしそれが滑稽だとすれば、作者を天皇よりも舎人にした方が合理的である。従って日本書紀が、古事記よりも合理的な線で貫かれていることの、これは一例と言えるかもしれない。現代人も亦合理的であるから、日本書紀の解釈に従う方が妥当であろう。しかしこの歌を記紀から外して、独立して鑑賞するとなれば、合理的もへったくれもなく、勇猛をもって知られた天皇がお尻に帆かけて逃げ廻ったと見る方が、どれほど面白いかしれない。 「大和は国のまほろば」は、大和朝廷の儀礼歌であるように思う。つまり「君が代」である。と言っても、ちっともしかつめらしい歌ではない。素朴な、民衆の合唱であって、下から盛り上った歌、決して上から抑えつけた歌ではない。「君が代」なんぞという下らない歌はさっさとやめて、この古事記歌謡の作曲でも募集して国民歌としたらどんなものだろうかと思う。 「命の全けむ人」は、やはり望郷歌として巧みに物語の中に導入されているが、「平群《へぐり》」という地名を伴うところを見れば、その地方の民謡であったことは疑いを容れない。民謡は土地に附属するものだから、他国でそれを歌えば、当然望郷歌となる。  少し脱線すれば、僕は信濃追分でこれを書いているが、旧のお盆には、この土地でも盆踊りがあった。この土地に固有のものは追分馬子唄というので、これは馬子が道中を行きながら馬の鈴に合せて歌うもので踊りは踊れない。そこで盆踊りは、レコードで木曾節や伊那節を掛けることになるが、これでは土地の違和感を伴い、雰囲気を醸し出さないようである。しかし木曾や伊那で生れた人なら、別の土地でそれを聞くことは感動的であるに違いない。  ところでこの歌の眼目は、「命の全けむ人」にあると思う。民謡としては、長寿を祈る歌垣の歌だというのが僕の解釈だが、物語の中では、この呼び掛けの相手が故郷の若者たちを指すか、征旅を共にして来た家来たちを指すかで、だいぶ重みが違って来るように思う。本来は、平群地方の民謡として、老人が若者たちに呼び掛けたものであろう。しかし倭建命の物語の中では、当然家来たちに呼び掛けたと取らなければ意味をなさない。自分は今や死ぬだろうが、お前たちは故郷に帰って長生きしろ、という歌である。  しかしこれを小説的に解釈すれば、この時、倭建命のみがこれを歌ったのではなく、全軍が、かねて子供の頃から習い覚えた故郷の民謡を合唱した、と考えたい。そうすると、「命の全けむ人」の中に、自分が含まれるかどうかは分らない。仲間の誰彼は無事に故郷に辿り着けるかもしれぬが、自分は旅の空に骨を埋めるかもしれない。つまりそこには運命に身を委ねている戦士たちの、一種の連帯的な友情のほとばしりのようなものが感じられるのではないだろうか。民謡が物語の中に導入されて、ごく自然に、最も見事な成功を示した例として、この歌をあげたいと思う。 「はしけやし」は、ごく素朴な片歌である。雲が立つことは「八雲立つ」以来の、最も古代人的な自然への嘆賞である。この歌は、土橋寛氏は新しく創作されたものと見ていられるが、僕はやはり、ごく古い伝承的な歌謡で、それも一部分のみが伝わって他の部分が消滅してしまったような古いものではないかと思う。雲は最も日常的な自然現象として、恐らくは常に何等かの前兆として見られたに違いないが、それが何の前兆であったかはもう分らない。古事記の時代には、それをこの歌に見るように、一種の精神的な使者として解することが行われ始めたのだろう。万葉集の時代に至って、雲のたたずまいは更に、魂の具現の如くに考えられるのが普通になったかと思われる。 [#地付き](昭和三十五年八月)     古代の魅力  このところ暇にまかせて読書三昧の日々を送っている。それというのも、信濃追分の山荘で夏を過していざ東京へ引き上げようという間際に、胃を悪くして近くの病院に入院する破目になり、退院してからも当分のうちは田舎暮しを続けて予後を養うことにしたから、従って毎日がすこぶる暇である。手当り次第に読んだ本の中でも、土居光知著「古代伝説と文学」は特に面白かったから、ここに感想を書きとめておきたいと思う。  これはすこぶるスケールの大きな書物で、「古事記」「万葉集」についての実証的研究から、シュメルのギルガメシュ伝説、ギリシアのヘーラクレース伝説、また古代中国の「穆《ぼく》天子伝」などの考証に及び、更に附録として「旧約聖書」のなかの「ソロモンの歌」の新訳をも含んでいる。しかしそれは徒らに多方面の論文を収めた雑纂という印象ではなく、見事に一本の太い筋に貫かれた論理的な構成として受け取られる。この一本の筋とは、著者の用いた言葉によれば、「詩的心象」による比較文学的考察である。著者は「古事記」や「万葉集」に於ける「詩的心象」を調べて、例えば「天地初発之時」と漢文或いは経典との比較、七夕の歌と「文選」、大伴氏の作歌と「遊仙窟」などの比較を初めとして、自然現象や風物が時代と作者とに従ってどのような特徴を持ち、またどのように変遷して行くかを明かにする。中でも山吹の歌が、「万葉集」から俳諧に至る迄に、その詩的心象を変えて行き、遂に原始的イメージを失う過程などは、短文ながら鮮かに納得させられる。  この「詩的心象」のうち、著者が最も中心的な主題として採り上げたものは、生命の木及び世界の木というイメージである。記紀に出る田道間守《たじまもり》の話、常世の国に「ときじくのかぐの木実《このみ》」を求めに行った話は、ただちに外国の類似した多くの説話を聯想せしめる。そこから、この説話の原型を比較して、我が国への輸入を調べようとする論文が、この書物の後半を占めることになる。  僕はこの「古代伝説と文学」を、随分長い間かかって愉しみに読んだ。というのは、この本はしばしば読者をしてこころよい空想を刺戟せしめるからである。古代人が、世界を一本の木として考え、また死者を甦らせるための生命の木を願望したという伝説は、原始文明の各地に於てそれぞれ独立して発生したのであろうか、それとも時間的な順序に於て、次第に普及したのであろうか。著者は原型をシュメルに見、それがクレタ島を経てギリシアへ伝わったことを考証する。また「穆天子伝」によって中国へ伝わったことを証明しようとする。その規模の壮大さに於て、これは現代人の「詩的心象」に訴えるものをも、多分に含んでいる筈である。  読了に時間がかかるもう一つの理由は、読み進むに従って、しばしば他の書物を参照したくなることである。我が国の古典類は別としても、例えばフレイザーの「金枝篇」やトインビーの「歴史の研究」やロバート・グレーヴスの「ギリシア神話」など、ちょっと開いて見ているとついその方で時間を取る。加えるに最近はやりの古代オリエント学の参考書が沢山ある。僕は目下は山暮しだから手許に役立つほどの本があるわけではない。それでも取り寄せて見ている通俗的な考古学や古代史の内容が、ちょうど「古代伝説と文学」のために役に立つ。あれこれと読み較べると、時の経つのを忘れるほどである。  序文によれば、著者の学生時代に、クレタ島の考古学的発掘が行われ、クックやエヴァンズによってその成果が公刊されたことに、著者は研究の端緒を得られたそうである。従ってこの書物の着想は、萌芽として半世紀の間暖められ、次第に深く次第に広く掘り起された土壌の上に、一本の木として生長したと譬えることも出来よう。この書物で僕が最も感動するのは、常にこの木の全体を眺望している全的な視野と、葉の一枚一枚をも見逃さない精密な測定とである。同時に巨視的でありかつ微視的であるということは、あらゆる学者に要求されることに違いないが、近頃のように専門が分化してしまうと、専門家以外にはまるで意味の通じない論文が生れて来る。つまり微視的というより近視的になり易い。国文学の論文なんかを見ていると、しばしばそういう感じがする。 「古代伝説と文学」は、その意味で特定の専門分野のためにのみ書かれた論文ではない。この見事なエッセイ集は、国文学であれ民俗学であれ神話学であれ、また考古学であれ、つまり知的な好奇心を抱いている人には(たとえ難解な部分があっても)誰にでも興味津々たる書物なのである。僕はこういうものが、つまり国文学の領域を一段と拡大した著作が次々に出ることを歓迎したい。そのためには比較文学的方法は欠くべからざるものであろうと思う。  ところで比較文学といっても、この書物の「西アジア古代伝説」の中で主として比較されているのは、ギルガメシュ、ヘーラクレース、オデュッセウスの三つの伝説で、それらと古代中国の伝説との比較部分は、材料が少しく不足しているし、記紀の田道間守の伝説は簡単すぎて、とうてい原型を想像することが出来そうにない。つまり少々尻すぼみである。またシュメル、クレタ、ギリシアの三つの文化的特徴を論じた部分はすこぶる精細をきわめているが、これは更に考古学的発掘と古代文字の解読とが進むにつれて、一層材料も豊富になり、従って、一層の確実性をもって文化の普及経路が明かになると思う。例えばギルガメシュ伝説でも、紀元前三十世紀から紀元前六世紀に及ぶ種々の形があるらしいから、その内部的な生成過程も問題になるだろうし、セム語族の国々に囲まれて、インド・ヨーロッパ語系のヒッタイト人の国家が出現したことなども、伝説に変形を強いたに違いない。古代オリエント学は日進月歩らしいから、その成果を充分に採り入れて更に精彩ある続篇を書かれんことを、愛読者の一人として、土居光知氏にお願いしたいと思う。 [#地付き](昭和三十五年十一月)     「萩原朔太郎詩集」  私が初めて萩原朔太郎という響きのいい名前を覚えたのは、本郷にあった旧制の高等学校にはいった年、寄宿寮に附属していた狭い図書室の中の新刊本を集めた書棚に於てである。「氷島」が出版されたのは昭和九年六月で、私はその年の四月に入学した。そして私は近代詩に対して殆ど何等の予備知識を持っていなかったから、いきなり文語体の、しかも藤村などとはまったく違った異様に新鮮な文語的発想を持つ詩の魅力に取り憑かれた。薄暗い電燈の下で一篇また一篇と読んで行ったこの詩集の、私の内部に浸透したその効果を、今私は正確に測ることが出来ない。しかしすべての詩篇をことごとく諳誦しようとした十七歳の少年の魂に、詩というものの神秘な魔力を初めて明かに伝えた筈である。  私は「氷島」から溯り、新潮社版の、あの黄色いクロースの「青猫」を求め、やがて「月に吠える」の新版本を探し当てた。「氷島」を手に入れたことは勿論である。従って私は、朔太郎の詩業を、ほぼ年代的に逆の方向に読み進んで行ったことになる。私はそれから近代の詩集を漁り、私のひそかに愛する詩人たちは次第にその数を増して行ったが、朔太郎の三冊はいつでも最も大事なコレクションに属していた。ただ私は高価な本に手を出せる身分ではなかったから(当時「月に吠える」は勿論決して安くはなかったが)、第一書房版の革製の「萩原朔太郎詩集」はとうとう買うに至らなかった。そこで時に古本屋で見つける度に、革装幀の感触を愉しみ、クリーム紙質の手触りを愛撫した。  戦争の終る年に私は健康を害して北海道に逃れて行ったが、大事にしていた多くの書籍を、東京で売り払った。ただ「月に吠える」一冊は大事にして、他の幾冊かの本と共に北国まで持参した。遠いところで私はだいぶ苦労をしたが、年少の友人で私が色々と世話になった某君に、何もお礼をするものがなかったので、この「月に吠える」を進呈してしまった。私はその後東京のサナトリウムに移り、詩集を集めるような趣味もすっかりなくなってしまった。しかし漸く元気になり出してから、昔の好きな虫がまたむずむずし始めた。私がどうしても手に入れたかったのは、そして割にた易く買うことが出来たのは、第一書房版の「萩原朔太郎詩集」である。私はそれを買った時に、昔遂に言葉を交すことの出来なかった意中の人に、めぐり会ったような気がした。恋人は少しも年を取らず、革装幀の感触とクリームの紙質と三方金のあでやかな装いとで私の前にあった。そのずっしりとした重みは、長い時間に耐えているようでもあった。  この部厚い詩集は、やや豪奢にすぎて、本当を言えば朔太郎にふさわしいとは思われない。朔太郎らしい本はやはり「青猫」であり「氷島」であり「猫町」であり「郷愁の詩人蕪村」であろう。「月に吠える」も勿論である。しかし手許に置いてしょっちゅう繙くためには、この「詩集」に如くものはない。ここには殆どすべての大事な作品が含まれている。私は頁をひるがえして任意の頁を開き、そこに含まれる詩人の情感を読み取り、そして少年の日の詩的空想と重ね合せて、私の感受性の中に奥深く眠っているものの揺り動かされるのを覚えるのである。   輪廻の暦をかぞへてみれば   わたしの過去は魚でもない 猫でもない 花でもない  例えば私が今開いた頁にこの二行がある。これは西欧の詩にはない深く東洋的な情緒である。   このすべて寒き日の 平野の空は暮れんとす  私はそこに私の過去の、しかしもう忘れてしまい、今では一つの朧げな心象風景となった一場面を、明かに想い起すような気がする。   どこから犯人は逃走したか   ああいく年もいく年もまへから   ここに倒れた椅子がある   ここに兇器がある   ここに屍体がある   ここに血がある   さうして青ざめた五月の高窓にも   おもひにしづんだ探偵のくらい顔と   さびしい女の髪の毛とがふる|ゑ《ママ》て居る  これはつい全文を引いたが、どのような興味津々たる探偵小説を読んだ時よりも、この九行の詩句は私に多くの空想を語りかける。これら三箇所の引用がすべて私がまったく偶然に開いた頁にあったということは、この一冊の詩集が、どの頁も、如何に私にとって貴重であるかということの明かな証拠であろう。 [#地付き](昭和三十七年三月)     「李陵」 「李陵」は中島敦の代表作の一つである。といっても彼の作品はその数が極めて少ないから、他に「山月記」「弟子」のような中国古典に典拠のあるもの、「光と風と夢」のような南海物、「狼疾記」のような一見私小説ふうのもの、「わが西遊記」のような童話的な思想小説、それからごく短い「牛人」のような象徴的作品、そのどれもが彼の代表作として通用する。つまり材料の如何《いかん》に拘らず、中島敦の作品はすべて強烈な個性によって貫かれている。たまたま「李陵」をあげるのは、これが彼の最後の作品であり、かつ最も広く知られていると思われるからである。  中島敦は明治四十二年東京に生れ、中学生のころまで埼玉県、奈良県、それに朝鮮京城に住んだ。第一高等学校を経て東京大学国文科に入学。満州、中国に旅行し、卒業後、横浜の女学校の教師となった。そのころから小説を書き始めるが、昭和十六年に南洋パラオ島に書記として赴任、病気のため翌十七年春帰京、その年十二月四日、三十四歳で死んだ。  彼の主な作品はほとんど晩年の二年間に集中している。ただ文壇に広く知られるには至らなかった。それは彼の価値を認めるには、戦争中のあわただしい空気が妨げになったということもあろうし、また生前に文芸雑誌に発表されたものがただの二篇しかなかったことにもよるだろう。しかしこの二篇、「古譚」と「光と風と夢」とが、芥川賞委員の目にとまらなかったというのは、どう考えても不思議な気がする。 「李陵」は死の直前、昭和十七年十月ころ完成していたらしい。彼の死後、中島がその門をたたいた深田久弥氏の手に、未亡人から渡された。清書するひまもなく、鉛筆書きのままの原稿だったといわれる。そして翌十八年七月号の「文学界」に遺作として発表された。題名のところは空欄のままで、深田氏によって「李陵」と名づけられた。これは内容にふさわしい題名だが、作者は「漠北悲歌」とするつもりだったかもしれないことが、残されたメモに出ている。 「李陵」は匈奴と戦って敗れ、敵の捕虜となって胡地で生涯を送った漢の将軍李陵の伝記である。それとともに、李陵を弁護したかどによって宮刑に処せられ、屈辱の身を蚕室にこもって「史記」を脱稿する司馬遷の伝記と、李陵の旧友であり、同じく胡地にとらえられてあくまで漢室への忠誠を貫き、節を持すること十九年の後に国に帰った蘇武の伝記とが、織り合されている。明かに「筋のある小説」で物語としての結構にも富んでいるが、吉川幸次郎氏によると、原典として漢書の李陵伝が用いられて、しかも殆ど逐字逐句的に従っているそうである。李陵はともかく、司馬遷にしても蘇武にしても、その故事はよく人に知られているが、この二人を李陵と対照的に描いて、李陵の人間的な憤り、悩み、あきらめを浮き出させるところ、小説家としての腕前は決して凡手ではない。その意味では幸田露伴の「運命」とともに、天と人との相剋を扱った、すぐれた歴史小説であると思われる。  一見してごく客観的な、冷静な文体による小説のように見えながら、司馬遷の苦悶にも、李陵の諦念にも、作者の鋭い主観がしばしば露出していて、そこに一種の若さを読み取り、作品の瑕瑾《かきん》のようにみなす批評家もあるだろう。露伴の「運命」に較べれば、この作品は完全に熟しているとは言えない。しかしそれは中島敦の最後の作品として、挫折への暗い予感を含んでいるからである。三十四歳の小説家の作品が、老成していたとて何になろう。この激しさ、この号泣のような調子の高い文章のうちに、中島敦の内心の叫びを私たちは聞き取らなければならない。  今日に於ても、中島敦の文学は実に新しい魅力を持っている。それは材料の面白みにあるのではなく、彼の自我の激しさ、その激しさを写し出した張りつめた文体のうちにある。 [#地付き](昭和三十七年十月)     頭脳の体操  推理小説は、前には探偵小説と呼ばれていました。私なんかは、どちらかといえばこの探偵小説という呼びかたのほうが好きです。しかし推理小説のほうが、ミステリイとかスリラーとかを含めて広い意味で使えますから、近頃のように推理小説がはやっているときには、このほうが便利でしょう。  それというのも、探偵小説となると、さっそく探偵、それも名探偵が登場しなければならず、頭のいい探偵は世の中にそんなにたくさんいるはずもありませんから、どうしても探偵ぬきの探偵小説が生れて来ることになります。そうして生れた推理小説にも、もちろん読みたくなるような作品はいろいろありますが、それは名探偵にまずつきあってからの話です。  名探偵といえば、さっそく思い浮べるのは誰しもまずシャーロック・ホウムズでしょう。ホウムズやウォトスン博士の名は、その生みの親であるコナン・ドイルの名を知らない人にも、聞えています。まるで、ほんとうにいた人かとまちがえるくらいです。このホウムズという名探偵は、作者ドイルの昔の先生をモデルにして作りあげられた人物だということですが、その人だって、こんな人間ばなれのした、神様みたいな頭脳をもっていたはずはありません。ホウムズの推理力はあんまりすごいので、どんな悪人でも最後にはきっとつかまることになっています。しかしホウムズの冒険がおもしろいのは、そうした結末にいたる途中のところです。それを読んで行く間じゅう、私たちもまた霧深いロンドンの石だたみの通りを、いっしょに馬車で走って行くような気になること、そして、ウォトスン博士や、ベイカー街|不正規隊《イレギユラーズ》の少年たちや、下宿のおばさんや、そのほか登場するいろんな人たちが、みな生き生きとしていることです。ホウムズが|なぞとき《ヽヽヽヽ》をするのにつごうがいいように、お話が仕組まれているわけではなく、ホウムズだってウォトスン博士と同様にわけがわからなくなって、頭をかかえることもあります。それを推理力をはたらかせて、一つ一つ解いて行くのです。霧が晴れるように、しだいに事件の|なぞ《ヽヽ》が明るみに出て行くのに、私たちもいっしょになって立ちあうわけです。  ですからただ読んで行くよりも、あなたもホウムズといっしょになって考え、どうしてなんだろうと、しょっちゅう疑問をもつことが、よりおもしろく読む|こつ《ヽヽ》なのです。からだが体操によって鍛えられるように、これを頭脳の体操ということもできましょう。もっともどんなに頭脳の体操をしたって、ホウムズみたいにはいきません。なにしろこの人は犯罪学の専門家なんだし、私たちには犯罪なんて縁がありません。しかし、こと頭脳の問題となれば、算数よりももっとおもしろくてしかもそれだけのききめのある、この体操をしなければ損です。  しかし白状すれば、私はむかしシャーロック・ホウムズの出て来る探偵小説を端から読むほどの愛読者でしたが、そのために頭がよくなったとは思えません。ですからみなさんがホウムズを読んだにしては、算数の点が前よりちっともよくならなかったとしても、読んでいる間じゅうおもしろかったのなら、それでいいことにしてください。私のことをうそつきだなんて言わないでください。 [#地付き](昭和三十七年十二月)     「東海道中膝栗毛」 「長篇の愉しみ」という題を与えられて、好きな作品について書くのだそうである。こういう続き物の欄だと、早い者勝ちで、既に誰かが取り上げた作品を繰返して書くわけにはいかない。私はだいぶおくれを取ったし、それに長篇と言えばとかく外国のロマンとかノヴェルとかが人の念頭に浮ぶ。そこで私はぐっと意表に出ることにする。  どうせあいつはバタくさい、ハイカラな作品を選ぶだろうという悪口の先を越すつもりなので、決してレパートリイの広きを誇る気もなければ、附け焼刃でごまかすわけでもない。この作品、つまり十返舎一九の「東海道中膝栗毛」は、むかし私の枕頭の書だったし、この頃また愉しく読み返している最中である。  弥次さん喜多さんは、最も人口に膾炙している典型的日本人で、子供だってその名前を知っている。しかしこの二人連れは、原作を抜きにして、つまり原作とは無関係に歩きまわっていることも(それは傑作の一つの条件みたいなものだが)認めないわけにはいかない。こんな愉快な作品を、原典で読む人が少ないというのは少々情ない。中村真一郎のように王朝の物語をほめちぎるのは見識というものだが、私などは学生時代にもっぱら江戸時代の小説に読み耽って、西鶴や馬琴などから段々にさがって、読本、人情本、滑稽本などに夢中になっていた。当時は「日本名著全集」という江戸文学の作品を収録した本が安く買えたせいもある。  その結果、私が江戸文学の影響を受けたかというと、格別そのようなこともないのは不思議だが、今でも私は眠られぬ夜の就眠術の一つに、弥次「べらぼうといつたア、おれがことだハ」旅人「ハアこんたそのべらぼうか」弥次「ヲヽそのべらぼうだ」などという問答を思い浮べながら、暗闇の中でにやにやするのである。  ところで、「道中膝栗毛」の「初編」は、享和二年(一八〇二年)に出版され、「東海道」は大阪まで、弥次喜多が無事行き着くのは文化六年(一八〇九年)である。その後この二人組が木曾街道から中仙道を通って江戸まで戻るのは文政五年(一八二二年)であるから、出版は二十年以上の長期間にわたったことになる。何ともゆっくりした旅だが、如何にこの続き物が好評で、次第に作品がふくらんで行ったかが分るというものだ。  私たちが普通読むのは「東海道中膝栗毛」だが、この「発端」は文化十一年(一八一四年)にあとから書かれた。二人がなぜ江戸から逃げ出すかを説明したもので、本文の印象とはだいぶ違う。本文で読む限り、弥次郎兵衛も喜多八もれっきとした江戸っ子の如く見えるが、「発端」によれば、弥次郎兵衛は駿州府中の相応の商人で、旅役者の抱えの鼻之助に打込んで身代限りをし、江戸へと逃げ出した者である。鼻之助あらため喜多八はどこの生れとも書いてない。この弥次郎兵衛の生れの方は、作者その人と同じで、江戸っ子でも何でもありはしない。しかし弥次さん喜多さんに関する限り、この二人が田舎へ行って偉そうな江戸弁の啖呵を切るたびに、私たちは作者の一種の皮肉を感ぜざるを得ない。威勢のいい江戸っ子と言ったところで、田舎侍や馬子人足と同じ眼で見られているので、作者は決して贔屓をしているわけではない。  十九世紀初頭の小説なのだが「膝栗毛」は骨骼のある長篇小説ではないし、人物像だって矛盾だらけである。しかしこういう滑稽さは、主題とか発展とか人格とかを重んじるヨーロッパの小説では、決して描き出せるものではない。ここでは作者の教養と経験とが、日本的情緒とともに、大きく物を言っている。教養というのもすさまじいが、「膝栗毛」には先行する歌物語、狂言、名所図会などの知識が多分に織り込まれているし、紀行文としては江戸以外の各地の風俗描写が、一種のエグゾチスムとして取り上げられている。当時は空間的に離れているため魅力のあったものが、今では時間的に隔《へだた》ったことによる魅力ともなっている。そしてこういう地理小説は、現在でも「大菩薩峠」から松本清張に至る一種の系譜となって、日本の読者の情感に訴えるものを含んでいると思われる。  地理小説という点を除外すると、この小説の日本的魅力は何と言っても弥次喜多という二人の主人公であろう。  シテとワキという能狂言の形式を踏まえたものには違いないが、ドン・キホーテとサンチョ・パンサの関係とは異り、二人は同格の主人公とみなされる。従って常にダイアローグを形づくる。徹底的にモノローグを欠くことは、近代の小説としては致命的な欠陥だが、逆にその点にこの小説の占める独自の面目があると言える。つまり本来は一人の主人公で足りるところを、二人に分れて自問自答に近いやりとりを繰返す。自分の失敗がひとから見られているという意識が、滑稽を一層客観化している。 「膝栗毛」は理窟抜きに面白いのだし、古典としてはごく読みやすい。もっともこの頃岩波の「古典大系」で出た麻生磯次氏の頭註本で私は読み返しているが、この頭註がまた仲々に愉しいもので、実際には決してそんなに易しくないことがあらためて分った。因に言えば、私がこれを枕頭の書としていたのは戦争中のことで、それが私に江戸文学の中でも特にこの「膝栗毛」を印象深くさせているのかもしれない。 [#地付き](昭和三十八年二月)     「珊瑚集」の思い出  文学的影響というものは、その表面に直接に現れたものと深部に滲透して眼に見えないものとがあるから、簡単には論じられない。それは対象が自分であっても、困難なことは同じである。私は永井荷風の文学から多くの無意識的影響を受けたように思う。しかしそれを分析することは私の柄でもなく、その必要もない。従ってここに、まさに直接的影響についてのみ書こう。それは私が青年時代に、「珊瑚集」の向うを張っておこがましくも「象牙集」という、一巻のフランス訳詩集をつくりあげようとしたことである。  それは私が大学生だった頃、及び大学を出てから折しも戦争が始まった頃のことで、私は東大仏文科で鈴木信太郎教授からマラルメ詩の手ほどきを受けていた。それに私自身の嗜好も、フランス象徴派に大いに共感していたし、青年というのは慾張りなものだから、三十年代の新しい小説にも関心があった。それ故、我が国の荷風のような詩人ふうの小説家に対して、気質的なものを別にしても、大いに宗として尊ぶだけの下準備が出来ていた。  さておぼつかない語学力でフランスの詩を読み進んで行くうち、それを日本語にしてみたいという誰でもが感じるような要求に捉えられた。私はその頃詩を書いていたが、詩を創作することと翻訳することとは、必ずしも別個の精神活動であるとは言えない。創作の代用品として翻訳があるのではなかった。外国語から屈折して生じたものによって、日本語による新しい詩語が生れた場合はたくさんあるし、だいいち漢詩を仮名まじりに読み下すことによって、別種の感興を得るという訓練を、私は既に得ていた。原詩に感動した場合に、日本語によっても同様に感動したいという欲求、それは意味を正確に伝えれば済むということではない。それなら単なる翻訳であって、文学的感動とは程遠い。そこに同じ翻訳でも詩と散文との相違が生じる。詩は訳詩であっても、あくまでも詩でなければならない。意味の他に、その味、そのリズム、その匂が伝わって来なければならない。従ってヨーロッパ語どうしの間、或いは漢詩から読み下しの日本語へと置き換えるのと違って、ヨーロッパ語を異質の日本語に翻訳する仕事は、決して容易であるとは言えない。  訳詩のお手本として、当時(そして現在でも大して変るまいが)最も重要だったものは、上田敏の「海潮音」と永井荷風の「珊瑚集」の二冊であった。その他に沢山の訳詩集があり、そこに一長一短があることは当然だが、私はここに何も訳詩の巧拙を論じようというのではない。明治三十八年の「海潮音」と大正二年の「珊瑚集」とは、このジャンルの二大古典であることは間違いないし、私も亦この二冊から多くのものを学んだと言えば足りる。  荷風はその散文作品の中でも、しばしばフランスの詩に言及したり、それを翻訳したりしている。従って「珊瑚集」はそれらの集大成であるような感じを受けるが、実はほんの僅か、三十八篇しかはいっていない(因に「海潮音」は五十七篇、また「月下の一群」は三百四十篇である)。私は当時無理をして籾山書店版の初版を手に入れたが、訳詩の部分は一冊の三分の一にも充たず、残りはフランス文学の紹介記事ばかりなので少々がっかりした覚えがある。しかもこの僅かばかりの訳詩のうち、必ずしも全部が佳品であるとは言えない(と生意気にも考えた)。つまり荷風の抒情が原作者と密着しているのは、主としてヴェルレーヌ、レニエ、ノアイユ夫人の三人であり、この三人の詩人の間には確かに荷風との共通点がある。が、ボードレールの訳などはもう少し違ったふうに訳すべきではなかろうか(と、これも亦その頃の感想である)。  その点が「海潮音」とは異る。上田敏は相手が誰であろうとも、すべて自家薬籠中のものとした。だいたい範囲がフランスに限られていないし、そのフランスも高踏派詩人の訳が特に秀抜である(ここでも、ボードレールはどうもという気を起させた)。それは上田敏が、一種の上田敏的訳詩調というものを振りかざして、如何なる相手をも同じ坩堝《るつぼ》に入れたということである。推敲の限りを尽した文体ではあるが、自然に流露したという感じがしない。ついでに言えば、上田敏の亜流を行く翻訳では、徒らに学者的な生硬さが加わって、原詩の味を勝手に歪めてしまっている。  そこで荷風の訳詩では、文体は自由であり、決して七五調美文とはならず、原作者と訳者との魂の交感の上に訳語が成立する。そしてそのことが、つまり訳者がどれほど原作者を理解し、心酔し、共鳴したかということが、日本語の文体の上にも響いて来るのではないか。荷風はフランス自然主義の小説家に対して方法論的興味を抱いたに違いないが、晩年の日記などを見ても、荷風が最も近かったのはアンリ・ド・レニエのような作家だったような気が私にはする。ヴェルレーヌやレニエの詩の訳が見事なのは、それが荷風の小説や随筆と等しいものを呼吸しているからである。   わが身には此の時よりして   海に昇る夕暮の悲しかりけり。  こういった二行は上田敏にはないし、上田敏のどのような華麗な詩句も、この二行ほど人の魂を掴むということがなかった。  ところで「珊瑚集」という題名が曲者である。序を見るとなかなか皮肉なことが書いてある。むかし「紅毛国の貿易船」が珊瑚珠や印度更紗を齎したので世人が争ってこれを購《あがな》った。そこで幕府は「法規を設けて制圧を試みき。これ鎖国の世の有難き思召たり。」今や開国の御世になって、軍国政府は新しい芸術や海外近世思想の侵入を恐れて、「其が妨止を企つ。これ忝けなき立憲の世の御仁政なり。」というわけで、「題して珊瑚集となしぬ。蓋し詩歌の遂に世に容れらるる事難きを知り深く自ら嘲るの意に外ならず。」という次第だが、なるほどと感心するより、うまくこじつけたものだと思わざるを得ない。自分の訳した詩はことごとく珊瑚であると言ったのでは自慢にすぎるだろう。しかし無邪気な読者は、この題名に寧ろ荷風の心意気を見たいのである。  さて初めに戻って、私も亦当時ひそかに訳詩を試みた。フランス象徴派に属する詩人たちのうち、自分の詩境に近いものを選んでノオトに書きしるすわけである。ノオトの左頁に原詩を書く。右頁に訳詩を書く。残念ながらレパートリイは沢山あるが訳業はいっこう進まないから、左頁はぎっしり詰っているのに、右頁は多く空白である。その第一頁に大きく「象牙集」と書いた。  象牙は珊瑚と並ぶ珍宝だから、こういう題名を擁しては当然夜郎自大と取られるだろう。私はそれを「象徴の牙」であると言い抜けるつもりだった。そして荷風先生にあやかったこの題名のもとに、一巻の書物を出せる日を願っていた。私は自分の詩をノオトブックに書きとめているような貧しい文学青年にすぎなかったから。  たまたま或る日、私は銀座で酔っぱらい、片時も離したことのない詩集のノオトと「象牙集」のノオトとを落してしまった。いくら探してももう見つからない。詩の方は思い出して書き直すことも出来たが、訳詩の方はうまく行かなかった。それと共に私の誇大妄想的な計画は忽然と消えてしまい、それから二十年の余も経った現在でも、私には一巻の訳詩集の計画はないのである。 [#地付き](昭和三十九年十一月) [#ここから1字下げ] 追記 右のような少々物ほしげな文章を「荷風全集」の月報に書いたところ、瓢箪から駒が出て、垂水書房の天野亮という人物が現れて、その本を出しましょうと言い出した。そこで新旧とりまぜて一冊分の訳稿をつくる傍ら、天野さんと装幀用の反物を探しに行ったりして、翌昭和四十年の夏、五百二十六部の限定版で、目出たく宿願を達した。 [#ここで字下げ終わり]    辞典の話  新潮社が世界文学辞典と日本文学辞典とを出版するそうである。いずれも手頃な一冊本とのことで、簡便有益な書物になることは間違いあるまい。ところで辞典の効用が多項目、詳細、正確、便利、等の属性を備える点にあるのは当然だが、どの頁をめくっても面白く、つい漫然と読んでしまうという効用も、ばかにしてはならない。必要のためにだけあるのでは辞典の最低条件にすぎず、私などには、辞典は加えるに昼寝の枕として、或いは昼寝への催眠剤として、ある。  ところで新潮社の文学辞典は目下進行中で、出来てもいない本を私が宣伝しても始まらないが、フランスに(これはイタリアの本屋との共同企画だが)絵入りの面白い文学辞典が出ている。ラフォン書店の刊行で、二冊本の「作家辞典」、三冊本の「作品辞典」まではまず当り前だが、引続いて一冊本の「登場人物辞典」というのが出た。これが引いて便利というよりは暇潰しに甚だ好適。原則として現存作家の作品からは採らないから、ムールソーはあってもロカンタンはない。その代りラフカジオなどを引くとすこぶる詳しい。もっとも現代の部分は割合に手薄だが、神話の人物、古典劇の人物、ロマン派の小説中の人物などに至っては、挿絵入りでぞくぞく登場するから、謂わば馴染の人物に久しぶりに出会って、身上話を聞くような愉しさがある。バルザックなどは、二頁見開きで、トランプのように人物の絵姿が数十枚並んでいる。  そこで我が国でも、こうした「登場人物辞典」があったらさぞ面白いだろうと空想した。人物を網羅する必要はないのだから、大項目主義で行って、光源氏があれば空蝉や夕顔はなくてもいいし、浮舟があれば薫や匂宮はなくても我慢するといった具合である。それで現代は戦争の始まる前ぐらいで仕切り、例えば、庸三、もん、長井代助、駒代、愛川吾一、早月葉子などという人物が並ぶ(これはちょっとしたクイズですね)。こういった辞典の場合に、その項目の説明が単なる履歴書に終らず、その人物を彷彿させるかどうかが、読み物として成功するための鍵になろう。  ところでついでに、これもフランスのことだが、昨年「ロベール国語辞典」というのが完成した。全六巻の、日本で言えば「大言海」ぐらいに相当する著作だが、これがまた引いて便利なだけでなく、読んで途方もなく面白い。というのは、これに先立つ「リトレ国語辞典」は何ぶん古くて、古典を読むのには必須でも、新しい言葉の用法には触れていない。ところがロベールにある無数の例文は、サルトル、ボーヴォワール、カミュに及んでいて、一つの単語に数十の例文がつき、その例文たるや長いのは十行にも亙って、まさにフランス名文選の趣きがある。そこで私はロベールの日本版をも空想するのである。例えばこんな具合に——。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] 塵労 [#ここから割り注]ジンロウ ヂンラウ[#ここで割り注終わり] (一)略 (二)世俗的な苦労。*江口は娘の小さい寝顔を真近にながめてゐるだけで、自分の生涯も日ごろの塵労もやはらかく消えるやうだつた。(川端康成「眠れる美女」) [#ここで字下げ終わり]  若い国文学者諸君、大志を抱いて一つやりませんか。 [#地付き](昭和四十年六月)     「車塵集」のことなど  佐藤春夫は変幻自在の歌い手だった。一般に詩人は一管の笛があれば足りる。その笛の音色がいみじくさえあれば、人は楽器の種類を論じない。しかし春夫は、笛のみで足れりとせずに、琵琶も箏も、またヴァイオリンもクラリネットも、ひとしく巧みに操ったように思われる。それは何も、詩の他に俳句短歌をはじめ、小説戯曲評論翻訳等の各ジャンルにわたって、多くの業績があったという意味ではない。ただ詩に限って言うとしても、佐藤春夫の詩業は、さまざまの楽器を上手に使いわけた人である、というふうな印象が私には強い。 「殉情詩集」を占める多くの作品は、文語体をあざやかに駆使した可憐な抒情詩で、春夫詩が人口に膾炙しているのもこうした詩風によるところ大だが、しかし決してそればかりではない。この中には叙事詩もあれば警句風のものもある、謎詩もあれば手紙体のものもある、挽歌もあれば滑稽詩もある、といった具合で、内容は極めて多岐である。そしてこれが「魔女」に至れば、或いは軽く或いは重く、殆どあらゆる詩型を使いこなしてカリグラムにまで及んでいる。私がアポリネールを聯想するからといって、必ずしも私の西洋かぶれということにはならないだろう。  しかしここに、春夫詩の一頂点を示すものとして「車塵集」がある。これは翻訳には違いないが、「やまぶき」に属する西洋詩人の翻訳とはまったく種類を異にしている。というのは、漢詩の日本訳というものは、外国文のように言葉そのものを置き換えずとも、想が同じければ意は充分に足りる。例えば、   しづ心なく散る花に   なげきぞ長きわが袂   情《なさけ》をつくす君をなみ   つむや愁ひのつくづくし  この薛濤《せつとう》の「春のをとめ」なぞ、原詩を離れてそのまま見事な詩になっている。しかし並置された原文を読めば、作者の詩才が如何に見事であるかがあらためてうべなわれる。   風花日将老   佳期尚渺渺   不結同心人   空結同心草  恐らく「車塵集」は、その副題に示すように「支那歴朝名媛詩抄」であるが故に、佐藤春夫のロマンチスムが充分に発揮されたものであろう。中国の女流詩人たち、しかもその多くは伝記さえも未詳の薄幸の佳人で、詩人の想像力を大いに刺戟したに違いない。原詩は、詩人が日本語を駆使するための単なるきっかけにすぎない。しかしこの「車塵集」が、訳詩集としてではなく、詩集として充分に通用するだけの価値を持っているというのは、翻訳の上手下手の問題ではなく、詩人の発想そのものに関係があるかと思われる。  佐藤春夫は自己を恃むこと甚だ強かった芸術家である。その恋愛詩は、相手が「少女」であろうと「こころ妻」であろうと「魔女」であろうと、全力をあげて迸り出る。しかし如何に溺れ切っても、溺れている自己を歌いあげる表現力は精緻をきわめている。つまり肝心な点は動き出すための最初のバネにあるので、動き始めれば、その詩境を歌うのにふさわしい楽器はおのずと定まってしまう。その意味で、佐藤春夫は近代日本の他の詩人たちと較べて、何よりもまず発想の詩人だった。そして「車塵集」は、現実とは程遠い趣味的書物的なものを拠りどころとしてはいるが、それは佐藤春夫にとって、現実の直接的題材と較べて発想に於て弱いということはあり得なかった。支那歴朝の名媛に対して、或る意味で春夫は「こころ妻」に対するのと同じ情熱を注ぎ、彼女等に代ってその思いを陳《のべ》るのである。単なる訳詩集以上のもの、ディレッタンチスム以上のものがこの中に流れているのも、当然のこととしなければならない。  私は「車塵集」を偏愛するからと言って、「殉情詩集」や「魔女」の価値を認めないわけではない。しかし私ぐらいの世代で、「殉情詩集」を愛誦しなかった少年はいないと言っても過言ではないだろうし、この後もまたそうであろうと思うから、比較的知られていない「車塵集」のことを書いた。 [#地付き](昭和四十一年二月)     十人十訳  一巻の短篇集といえば、まず普通は一人の作者の作品を集めたものだから、その作者の個性によって統一されていて、そこに魅力もあれば単調さもある。ところがこれが、別々の作者の作品を集めたもの、例えば「フランス名作集」といったものの場合には、内容は千差万別、読者の方も好むと好まざるとに関らずまるで違った傾向の作品に附き合されることになる。訳者も作品によって異るから、その文体も原文同様に種々様々である。原作の優劣あるいは好悪を論じるのと同じように、訳者のうまい下手を論じて愉しむことも出来る。というようなわけで、私は「フランス名作集」とか「ドイツ名作集」とかいう類の翻訳短篇集を読むのは、大へん好きである。  このような種類の翻訳短篇集の中で、私の最も愛読するものは鴎外の「諸国物語」である。これは題名通り収めるところは一国に限らず、独仏米露の他に北欧の作品まで入っている。私はこの国民文庫版の大冊を時折取り出して来て一つ二つ読むが、何しろ本を読むには必ず寝て読むという習慣のある私にとって、この本は少々重たすぎる(寝て読むのはその方が読みやすいからであって他意はない)。鴎外には他にも似たような短篇集として、「水沫《みなわ》集」を初め、「現代小品」や「蛙」や「黄金杯」や「十人十話」などがある。それらは軽い本だから、枕頭にそなえておけば寝ていて飽きることはない。内容は悲しいのもあれば滑稽なのもある、真面目なのもあれば幻想的なのもある、こちらの気分に従って選べば宜しい。忘れてしまった話となれば一層の愉しみである。  ところで鴎外訳は特殊な例であって、いわゆる名作集とは同日に論じられない。つまり十人十話には違いないが十人一訳といったものだ。一人の訳者の強烈な個性がどの一篇をも貫いている。強烈なとは言っても、「わたくしの作品は概して dionysisch でなくつて、apollonisch なのだ。わたくしはまだ作品を dionysisch にしようとして努力したことはない。」という鴎外の態度は、翻訳に当っても同様である。その「観照的ならしめようとする努力」が、かえって強烈な個性を感ぜしめるのである。  鴎外訳の特徴はちょっと考えただけでもこれだけある。第一に訳者が自信を持って原作に斧鉞《ふえつ》を加えている。これは原作の全体が訳者の頭の中にすっぽり入っていて、鴎外がそれを「観照的ならしめよう」とした結果である。第二に簡潔平明な文体である。冷静で達意の文章である。これは口述筆記ということとも関係があろう。第三に作品の選択の巧みさである。例えばリルケの紹介に見るような先見の明ということもある。必ずしも知名の作家が選ばれているとは限らない。「十人十話」に含まれる「冬の王」は繰返し読んで飽きることのない傑作だが、原作者ハンス・ランドについて誰が知ろう。「冬の王」は、ここに描かれた主人公に対する鴎外の共感によって、鴎外自身の作品であるかのような心情を吐露している。もっとも選ばれた作品がすべて佳作とは限らないが、一つの選択のためにどれほどの読書量が背後に隠されているものか、空恐ろしいようなところがある。  鴎外について書いていればきりがないから、ここらで本筋の方へ話を引きもどそう。といっても鴎外との比較になるのはやむを得ない。現在の我々の翻訳態度は鴎外のそれとはまったく違うものである。我々といったが、私はこの頃思うところがあって翻訳というものを殆どしなくなった。従って訳者代表みたいな顔をする資格はないが、訳者の気持は大体のところ察しがつくつもりである。そこで以下我々という字を用いれば、第一に我々は原文尊重主義であり、原作に斧鉞を加えることはまったくない。鴎外はカミイユ・ルモニエの「聖ニコラウスの夜」のあとにこういう附記をつけている。「前略。此訳文には頗る大胆な試みがしてある。傍看者から云つたら、乱暴な事かも知れない。それは訳文が一字脱けた、一行脱けたと細かに穿鑿《せんさく》する世の中に、ここでは或は十行、或は二三十行づつ、二三箇所削つてあることである。訳者は却つてこれがために、物語の効果が高まつたやうに感じて居るが、原文を知つてゐる他人がそれに同意するか否かは疑問である。」我々から見れば、こういう大胆不敵なことは恐ろしくて出来ない。「物語の効果が高まつた」かどうかに対して自信がない、自信があっても傍観者の思惑を怖れる、それに原文を一字一句たりとも改めないのが翻訳者の義務だと信じている。つまり鴎外では原作に対して主人であったものが、我々では下僕の身に成り下っている。これは第二の文体の点でも同じである。簡潔平明で押し通すわけにはいかない。向うが紆余曲折に富んだ文章なら、こちらもまわりくどく訳さなければ原作の味が出ないと思う。第三の選択の点に至れば、自分の気に入った作品を訳せるのはよほどの幸運である。それほどの読書量もなく、食指が動くことも尠い。つまり鴎外には片手間の仕事であったものが、今では何となく職業的、専門的になっている。鴎外は読者を愉しませるという目的のために公務の余暇に僅かの時間を割いて「全力を傾注」した。我々だって全力は傾注する。ただその全力は、読者のためというよりは、訳者の理解力を江湖に知らしめんがため、というようなところがある。  これは悪口のつもりではない。翻訳者も専門が分化して、一個人で「フランス名作集」を出すことはまずないし、況や「諸国物語」を試みることは不可能である。鴎外の時代は古き良き時代だったというまでである。現代に於て「十人十話」が駄目なら「十人十訳」で我慢しなければならぬ。おっと我慢というのも言い過ぎだった。ここでの利点を考えれば、選択には専門的知識による裏打があり、訳者には人を得、訳文にはそれぞれ原作を彷彿たらしめる味がある。鴎外一人の個性の代りに、十幾人かのフランスの作家たちの個性が見られる、とでも言えば宜しからん。 [#地付き](昭和四十一年七月)     一冊きりの本 「堀辰雄詩集」という限定版の本がある。昭和十五年に出た薄っぺらな詩集で、深沢紅子さんの絵がはいっていた。僕はその本を堀さんから貰えなかったし、身銭を切るには少々高すぎた。この頃覆刻本が出たらしいが覆刻本では欲しくない。  ところでこの詩集の原型は、立原道造の作った限定一冊の肉筆本である。そのことは堀さんの序文に詳しい。立原が生前、自分で丁寧に筆写して一冊の冊子に仕立てたものだそうである。僕はその原本を見ていないが、深沢さんが今でもお持ちなら一度拝見したい。  ところで同じ堀辰雄に「我思古人」という小品があって、堀さん愛蔵の十二顆の印について述べてある。印は徐文長を初めとする明清二代の文人たちの作で、何れも絶品たることは言うまでもない。そこで僕は三年程前に、同じ「我思古人」という題で随筆を書き、大いに垂涎の意を表した。堀多恵子夫人も遂にほだされて、僕にくれてもよさそうな心境にほぼ達せられたかの如くである。  数年前に軽井沢の草木屋に命じて作らせた和紙の冊子に、僕はこの夏、右の二つの「我思古人」の文章を筆写し、そこに十二顆の印影を挿絵として加えようかと思っている。いや、印影の方が主で、文章はその解説ということかもしれない。そうするとこの解説つき印譜は天《あま》が下に一冊きりの本ということになるだろう。というようなことを空想するのは愉しいものである。 [#地付き](昭和四十一年八月)     趣味的な文学史  趣味的に読む場合に、文学史というのは愉しい読み物である。昔、旧制の高等学校の生徒だった時分に、私は次田潤先生の「国文学史新講」を愛読した覚えがある。体系的に文学の流れを勉強するというより、自分の知らない作品の梗概を読んだり、引用の原文を味わったりしながら漫然と繙《ひもと》いて行くのは、時の経つのを忘れるほどの面白さだった。知っている作品の説明があれば自分なりの感想を浮べ、知らない作品の時には是非一読しようと奮起する。いずれ万巻の書を読破した暁には、自分でもひとつ文学史を書いてみようとまで空想する。若さというのは無鉄砲なもので、どれほどの学殖を貯えれば文学史を書くという大事業が可能なものか、ついぞ見通しさえも立てたことはない。こういう趣味的なやりかた故、次田先生の「国文学史」の試験に、良い成績を取ったという記憶もまるでないのである。  大学にはいって、ピエル・アンベルクロードという仏人の先生から、今度はフランス文学史の講義をうけた。少壮気鋭の坊さんで、毎回平均五枚位びっしりと詰っているタイプ印刷の本文を学生に配り、それをもとにして、三時間にわたってすこぶる早口の講義を聞かされた。学年末には試験があり、これが毎年必修ということになっていて、フランス語で答案を書かなければならない。ここに至って、趣味的の域を脱して、まさに試験地獄の観を呈した。何しろ知らない作品の数があまりに多い(というより、端《はな》から知らないと言った方がよい)。結局は丸諳記せざるを得ない。しかしその当時の記憶が、現在の私の貧困な仏文学史的知識の基礎をなしているのだから、顧みればたいへん有難かった。  その後、物換り星移って、身過ぎ世過ぎにフランス語の教師をしている以上、仏文学史と無縁では済まされないが、試験をされるわけでもないから、とかく趣味的な読みかたしかしないのは当然である。それも通史よりは近代を主にしたものに手が出やすい。アルベール・チボーデの名著などは趣味的に読むのに最もふさわしいものであろう。ルネ・ラルーのは凡庸、アンリ・クルーアールのは詳しすぎる。ボワデッフルのものなんかも、辞典の代りにはなるが通読するのは馬鹿げている。大体フランス人が書けば、それは彼らにとって国文学的教養という共通の地盤を読者と分ち合うのだから、我々外国人から見てやたら煩瑣《はんさ》な印象を受けるのはやむを得ない。でなければクロード・エドモンド・マニイのように作家論集といった形になる。つまりは辞典となるか、作家論集となるかの何れかである。私が趣味的に最も愛読しているのはクレベル・ヘデンス著「仏文学通史」で、僅か四百頁の中に中世からアヌイまで網羅的にはいっている。その代り如何なる大作家と雖も一人三頁を越えることはない。モリエールが三頁でラシーヌが二頁である。簡潔で要を得ているが引用がまるでないから、息を抜くことが出来ない。  そこで私の理想とする文学史は、第一に通読に耐えるものでなければならない。群小作家は無視してもいいから、これという作家に関しては作品の梗概並びに適切な引用があり、著者の伝記や逸話をも洩らさず、時代の流れをも見失わず、一貫した文学観で裏打されている必要がある。試験勉強に使用して諳記に便利であるのみならず、漫然と読んでも面白くなければならない。つまりは読者が未知の作品をそこで知らされて、原典を読んでみたいという気を起させるほどの気迫が、行間から滲み出ているかどうかが大事な点である。チボーデの文学史などはその最もよい例であろう。  そこで外国人である日本人が仏文学史を書くという問題になる。読者もまた日本人であるから、仏文学的教養なんてものが大してある筈もない。未読の作品はそれこそ数え切れない。そういう読者に対して面白おかしく異国の文学を紹介し、しかも学問的に筋を通すとなると、これは生易しい仕事ではなくなる。どうしても大事業という感じになる。しかし外国人であるが故に、充分の距離を置いて冷静に判断することも可能だろうし、日本人の好みを考慮に入れて、比較文学的に脱線することも可能であろう。決して無謀の業《わざ》ではない。  鈴木力衛教授が今回新たに仏文学史を書かれたということであるから、少々提燈持ちの一文を草した。鈴木氏の力量を以てすれば、たいへん読み易くて、しかも学識ゆたかな文学史が出来上ることは確実である。御本人が趣味的な人ゆえ、趣味的な文学史になるであろうことも、請け合えるような気がする。 [#地付き](昭和四十一年九月)     ヘンリー・ミラーの絵  一般の読者にとってそれぞれ好みの、よく言えば御贔屓の作家があるのは当然だが、これが我々のように謂わば文学の専門家ともなれば、単に好みに従って本を読んでばかりはいられない。たまには勉強のために気の進まない作家のものにも手を出さなければならない。自分と気肌の合った連中以外には眼もくれないとなれば、どうしても視野が狭くなる恐れがある。そうかと言って、頭の痛くなるような思いをしながら本を読むのは、およそ愚である。  私はむかしトマス・ウルフの作品を少しばかり読んで、これは凄いと膝を叩き、プルーストに比肩すべき大作家だと考えたが、何しろあの英語は読みづらいのでいずれとばかり後廻しにしてしまった。この後廻しというのが、是非とも読むべきではあるが当方の根気が続かないような場合に、私の採る常套手段である。後廻しにするとなかなかその番がまわって来ない。  ヘンリー・ミラーの場合もこれに似ている。ミラーの第一印象はトマス・ウルフとほぼ似たものだった。自己というものをこれほど飽きずに語り続けられるのは巨人以外の何者でもない。しかしガリヴァーではないが巨人族と附き合うのはくたびれるから、どうも逃げ出した方が無難である。同じ逃げ出すのでも小人国とは違う。相手が小人国の住人と見極めをつければ、もうそこへ戻って来る気はないが、巨人族の場合には、後廻しというだけで、興味が消え失せたわけでは決してない。  ヘンリー・ミラーに対する私の興味は、作品以外に、彼が余技として絵を描くという点から発している。それがつまり、私がこのような雑文を書かされる理由でもある。客観的に見て、ヘンリー・ミラーと私とでは文学的に殆ど共通点はないだろう。しかし共に素人の横好きで絵を描くとなれば話は別である。もっともミラーは世界各地で二十回以上も個展を開いた水彩画家で、彼が自己顕示慾の強い人間である以上、文学作品のみならず絵に関しても自信満々なのは当然である。私のように、絶対に他人に作品を見せない日曜画家とは同日の比ではない。  ミラーの「暗い春」の一章に、「天使は私のすかしのマーク」というのがある。そこだけを本文とした豪華な水彩画集がエブラムズ社から出ている。また「絵を描くことはもう一度愛すること」という絵入りのエッセイもある。私が彼の水彩画に親しんだのは、主としてこうした複製によってだが、新潮社の応接間の一室に、ミラーの本物の水彩画が懸っていて、私はそれを見るのが愉しみで新潮社にしばしば出掛けて行ったものだ。  ミラーの水彩画は、彼が二十年代にパリにいた頃から本格的に始めたものらしいが、我々が複製で見ることの出来るのは四十年代以後のものである。人物、静物、風景などとりどりの題材が、いずれも適当にデフォルメされて、具象と抽象との間を往ったり来たりしている。色彩は明るく朗かで、天真爛漫というか、子供っぽいスタイルでのびのびと表現され、見ているうちに惹き込まれる。専門画家に類似を求めれば、或いはクレーに近いものもあり、或いはシャガールに近いものもある。しかしどの一点といえども如何にも独特に出来ていて、それらに共通するものはヘンリー・ミラーというこの個性である。彼はそのエッセイの中で、「私は自然に即しては描かない。」と言っている。彼の絵は彼の見た自然を記憶のままに再現したものであり、その記憶も恣《ほしいまま》な空想によって新しい存在につくり変えられている。「見ることは単に眺めることではない。人は同時に眺めかつ見なければならぬ。」と彼は書いているが、見ることに徹すれば、現在見ているものは「見た」ものの総和となり、読書や美術の記憶もそこに援用せられて、無意識のうちに一枚のタブローとなって眼の前に浮び上り、彼はせっせとそれを写し出すのであろう。確かにこれは「よく見る」男の絵である。こういう楽天的な明るさ、豊かな色彩、恣な空想、見ることの彼方にある超現実的な感覚、——それらのものは恐らく彼の書く小説と同質のものであろう。私はローレンス・ダレルの編纂した「ヘンリー・ミラー読本」を少しく読んだ位で、彼の小説を論じる資格がないことは勿論だが、彼の絵から受ける印象が、果して小説のそれと一致するかどうか、実に興味津々たるものがある。というのは、詩を書き、書画に巧みであり、篆刻にも秀でているというような東洋風の文人は、我が国では次第に少くなりつつあるのだから、ヘンリー・ミラーという西洋人が私には今どき珍しい文人気質とも見えて来るからである。  この分では後廻しとは言ったが、存外早く私はミラーの大作を読み始めるかもしれない。 [#地付き](昭和四十一年十月)     リルケと私  ライナー・マリア・リルケについて書くことには一種のたじろぎを覚える。それは古傷のようなもので、自分では既に医《いや》されたと信じているが、その傷痕を撫でることによって昔この詩人が私に与えたものを、今でもまざまざと思い起すことが出来る。或る時期に熱愛した作家があれば、自分の芸術を育てるためには彼等の影響からいち早く逃れなければならない。私にとってリルケもそのような作家の一人だった。しかし二十代に受けた影響というものは、それから長い歳月を経たとしても、そうおいそれと拭い去れるものではあるまい。  戦後暫くして加藤周一、中村真一郎と私との三人で「一九四六・文学的考察」という評論集を出した。今に至るも悪名高いこの本を特に印象づけたのは、加藤周一の「新しき星菫派」に対する批判で、この星菫派とは「四季」に拠っている若い詩人たちを指していた。その場合、ではお前たちはどうなのかという疑問が当然発せられたわけである。なぜならば新しき星菫派はみなリルケの徒で、私たち三人も亦リルケを熟読した経験を持っていた。私は加藤の論文を読んだ時に、七分の肯定と、あと三分ぐらいの後ろめたさを覚えた記憶がある。ただ私の読んだリルケは星や菫とは関係がなかった。リルケに学んだがリルケの徒ではなかった。私に影響を与えたものは殆ど「マルテの手記」だけである。  私はドイツ語は不得手だから、加藤や中村や白井健三郎などが「ドイノの悲歌」あたりを輪講していた会に出席したことはない。私はリルケを茅野蕭々や片山敏彦の訳で読み、アンジェロスの仏訳で読んだ。もっともインゼル版の小型本の詩集を何冊かは持っていたが、いくら辞書を引いても恐らく五里霧中だったに違いない。友人が輪講をしていたのは戦争中で、私がリルケを読んだのは主として戦争前である。  戦争前に私はフランス文学専攻の大学生で、人並にパリに留学したいと思っていた。しかしヨーロッパは既に戦火に見舞われていて、留学生制度は中止になり、パリは無限に遠くなってしまった。そして私はちっとも美しくないパリを「マルテの手記」の中に読み、この異邦人の見たパリは、恐らく私が見たであろうところのパリと同じものだと考え始めたのである。私は幻滅を自らに強いるために、マルテの眼を(同時にリルケの眼を)借用して、幻想の都会を自分の内部に作ったり壊したりし始めた。以来今日まで私はパリに行ったことはない。 「マルテの手記」の中にボードレールの詩「腐屍」に触れている箇所がある。リルケはその最終節をのぞいて、少しの嘘もないと書いている。最終節はボードレールの spiritualisme の最もよく出ている部分だが、そこをのぞけば、全体は一種の幻想的リアリズムとでも言うべきもの、即ち現実の極致にある幻覚を歌ったものである。しかしこの詩以上に、私は「マルテの手記」にはボードレールのパリを歌った詩、例えば「七人の老人」や「ちっぽけな老婆たち」や「盲たち」などが影を落しているように思う。それは死と幻覚とで腐臭を発している都会であり、それをリルケの眼は現実そのものとして見た。「マルテの手記」は作者が厳しく現実的であろうとする態度を自ら守ることによって、幻想の中に自由に出て行くことの出来た作品である。あたかも生を見守ることによって、死の世界に出て行くことが出来るかのように。物の内部にある死、或いは一つの魂の中に生れながらにして育《はぐく》まれている死が、この作品ではパリの現実と、マルテの幼年時代の回想と、歴史や伝説の記述との、三つの部分を通じて常に我々をおびやかしてやまない。それは既に巻頭の、身体を二つに折って両手で顔を覆っていた女が、驚いて身を起したはずみに、その顔を鋳型のように両手の中に残してしまったという箇所に始まっている。マルテは物を見ることから学び始める。私も亦そこから学び始めた。  マルテの世界は閉じられた世界である。そしてリルケの世界は必ずしも閉じられたままではあるまい。それは彼の詩が証明しよう。しかし私が嘗て「マルテの手記」で手に入れたものは、思考そのものが次第に熟しすぎて腐って行くような世界だった。そして戦争が始まり、死が我々に迫り、美が我々から遠ざかるような時代に、リルケは確かに甘美な誘いとしての死臭を放っていた。私が少しずつリルケから離れたのは、恐らくそのためである。リルケの中にある星菫派的なものは味のよい蜜には違いないが、リルケの本質は我々を死と馴れっこにしてしまう微量の毒薬であり、それを大量に服用することは危険きわまりない。そして死、或いは死の予感は個人的な体験であって、当時、何もわざわざ他人から教えてもらう必要のないものだった。 [#地付き](昭和四十三年一月)     材料としての「今昔物語」 「今昔物語」が、埋れた古典の地位からともかくも人に知られるようになったのは、芥川龍之介の貢献だと言い切れると思う。それも彼のエッセイ「今昔物語について」によってというよりは、彼の短篇小説のうちのすぐれたものが、「今昔」に材を採っていることが明かになって、反対に古典の方が復活したという面白い例に属しよう。現在では「今昔物語」の註釈本は岩波古典大系を初めとして種々あるし、現代口語に書き直されたものも、少くない。しかしそれでも芥川の先鞭によって、一般の読者が「今昔物語」の存在を知っているという点は、否《いな》めないと思う。  芥川龍之介の短篇のうち、明かに「今昔物語」を源泉としている作品を、有名なものばかり選び出せば次のようになる。下に附け加えたのは原典の番号で、そのあとは私の翻訳の題名である。  「羅生門」(巻廿九の十八、羅城門の楼上で死人を見る話)  「鼻」(巻廿八の廿、鼻を持ち上げて朝粥を食う話)  「芋粥」(巻廿六の十七、芋粥を食って飽きる話)  「運」(巻十六の卅三、貧しい女がついに福運を得る話)  「好色」(巻卅の一、平中が本院の侍従に恋する話)  「藪の中」(巻廿九の廿三、大江山の藪の中で起った話)  「六の宮の姫君」(巻十九の五)  私は「今昔物語」を翻訳するに当って、どうせ全部は訳せないと分った以上、文学的価値のあるもの、面白いもの、特色のあるもの、といった方針で選んだが、芥川が材料に用いた原話は注意して落さないようにしたつもりである。ところがこうして表をつくってみると、肝心の「六の宮の姫君」の原話が欠けていて、かえすがえすも残念でならない。というのは「六の宮の姫君」は、吉田精一氏によれば原話と「殆ど全く同じ」で、「これを彼の創作中の傑作とする論は若干疑問がもたれる」と言われている。しかし私から見れば、「六の宮の姫君」の最後の章に内記《ないき》の上人《しようにん》を登場させるのは芥川の創作であり、この章があることによって、この短篇の悲劇性が一段と高まる。これはやはり芥川の傑作に属するだろうと私は考える。大体芥川のやりかたは原話に密接しているように見えながら、巧みに他の材料をまぜ合せたり、一部分をふくらませたりして、原話の素朴な味とは違ったものを抽き出している。私の翻訳は原文を一切の技巧なしに、透明な水のように現代口語に移し変えることにあったから、読者諸氏は芥川のそれぞれの短篇を繙かれて、彼の技巧を見て頂きたい。例えば「好色」の原話は、谷崎潤一郎の「少将滋幹の母」の中に、これまた殆どそっくり扱われている。しかし芥川と谷崎とでは、文体の相違によって、まるで違った印象を受ける筈である。  芥川に劣らず人口に膾炙しているものに堀辰雄の作「曠野《あらの》」がある。  「曠野」(巻卅の四、近江の国に婢となった女の話)  これも原話の素朴な枠組を借りて、堀が自分の主題を注入した作品で、話のふくらませかたは芥川の場合よりも一層ゆったりとしている。この小説の前半は「六の宮の姫君」と似たような構成で、その点を比較して読むことも面白い。  以上は私が思いついたままに挙げたのだが、この他にも「今昔物語」に取材した小説はいろいろあるかもしれない。実を言うと私も、巻廿七の十六、「恋人と泊った堂に鬼が出る話」を基にして、「鬼」という短篇を書いたことがある。そしてその頃から、いっそ長篇を試みたらどうかという野心がひそかに萌《きざ》していた。  芥川の「偸盗」は相当の長篇だが、特に「今昔」に拠っているとは思われない。しかし全体としては「今昔」の世界を呼吸しているだろう。考えてみると「今昔物語」本朝之部は、王朝時代を描いた無尽蔵の宝庫である。それこそ宮廷の貴人から市井の貧民まで、ありとあらゆる人物がありとあらゆる事件に立ち会う。そこで私の野心が「今昔物語」を読み返しているうちにとうとう本物になり、「風のかたみ」という題の長篇小説を、二年ほど雑誌に連載した。この五月頃に単行本になって出る筈である。私は「今昔物語」に含まれている多くの挿話を、その中に目立たないように取り入れた。材料があまりに豊富にあるために、かえって自由を殺《そ》がれる恐れがあって、書き終えてみると我ながら色々と不満を覚える。しかし「今昔物語」を読まれた読者ならば、必ずや至るところに原話の面影を見出されるだろうから、そういう意味での面白さということはあるかもしれない。何となく自分の本の広告のようになってしまったが、「今昔物語」を材料にした長篇というのは他になさそうだから、読者諸氏の寛容を得たい。 [#地付き](昭和四十三年二月)     「月と六ペンス」雑感 「月と六ペンス」について感想を求められた。  断るまでもなく、私はサマセット・モームに詳しいわけではない。私が知っているのは、彼の厖大な長短篇のうちのごく僅かばかりにすぎない。とすれば「月と六ペンス」と私とを結びつけるものは、ポール・ゴーギャンということになろうか。つまりこの小説の主人公チャールズ・ストリックランドのモデルがゴーギャンであるとすれば、「ゴーギャンの世界」の著者である私は当然文句をつけるだろうというのが、出題者の意図に違いない。残念ながら、文句のつけどころはまるでない。それどころか、こんな面白い小説はないという例に「月と六ペンス」をあげることが、私の昔からの習慣である。      *  昔、というのは私が大学生の頃だが、私はポール・ゴーギャンに凝っていた。どういうはずみだったかはもう忘れてしまった。ジャック・リヴィエールは大学生になった頃の私の御贔屓の作家で、「ランボー論」を手初めに「エーメ」や「フローランス」などの小説を愛読したが、彼の評論集「エチュード」の中に確かゴーギャンについての短いエッセイがはいっていた。また古本屋の店先で、ゴーギャンがダニエル・ド・モンフレイに宛てた書翰集とか、ロベール・レイの長い序文のついた画集などを手に入れた。それから勿論、岩波文庫に「ノアノア」の翻訳があった。そしてゴーギャンに関するものなら何でも読むつもりでいた時に、「月と六ペンス」はゴーギャンをモデルにした小説だということを知ったのである。私はさっそくそれを読んだが、中野好夫訳の出たのが昭和十五年だから、多分その翻訳で読んだのだろう。そしてモームの小説は初めてだったから、その才能にほとほと感心し、熱の冷め切らないうちに「人間の絆」の原書を買って来て忽ち読んでしまった。そのために「月と六ペンス」の印象が少しばかり色褪せた位である。  これは余談だが、その頃の東京帝国大学仏文科は辰野隆、鈴木信太郎、渡辺一夫、中島健蔵の諸先生が少数の学生たちを相手に勿体ないような講義をなされていたが、研究室の和気|藹々《あいあい》たる雰囲気に惹かされてか他の学科の先生方もよく顔を見せられた。英文の中野好夫先生もその一人である。そこで生意気な大学生は中野さんをつかまえて、僕は「人間の絆」を読みましたけど、ああいう傑作を差しおいて「月と六ペンス」を訳すとは、先生も気が知れませんね。中野先生答えて曰く、モームは易しいから君だって読めるさ。中学四年生のリーダーが読める程度の学力なら、モームはこなせる。しかし翻訳となると、そういう易しいのがかえって難しいもんだよ。  私はその頃、フランスの難しい詩や小説を主に読んでいたから、中野さんの言葉にはすっかり感服した。そして十年後に中野さんが「人間の絆」を訳された時には、ひと事ながら安心した覚えがある。 「月と六ペンス」の方に話を戻すと、私はその頃、つまり大学生の頃、自分でも長篇小説を書こうと思っていた。その小説の中で、ゴーギャンを、或いはゴーギャンの問題を、取り扱うことが可能かどうかと考えていた。私は「月と六ペンス」を読んで、こんな面白い小説は自分には書けないし、また自分の書きたいものは|面白い《ヽヽヽ》小説ではないのだから、この手で行くことは出来ないと、さっさと諦めた。私はゴーギャンの問題を裏返しにして扱うことを研究した。私はその後、長い間かかって「風土」という小説を書き上げたが、そこではゴーギャンは登場人物たちの背後に幽霊のように浮び出る芸術家という虚像にすぎなかった。それを実像として描くためには、どうしても別の評論が必要だった。      *  私は今回「月と六ペンス」を久しぶりに読み返してみたが、やはりこんな面白い小説は自分には書けそうもないと痛感した。なぜ面白いかという点を、私なりに少し分析してみよう。  第一に芸術家小説であること。それもただの芸術家でなくて、まさに天才と狂人とは紙一重といった種類の、ロマンチックな英雄を描いている。名声の確立した天才を、その無名の時代に於て示すという仕掛は、つまりは未来の胚珠の内蔵された現在を示すことになろう。  第二にその天才を別の人物との対照に於て描いていること。語り手の「僕」にしても、美を理解することは出来ても美を創造することの出来ないダーク・ストルーヴにしても、やはり芸術家であることに変りはない。但しまったく別の種類の、狂気とは無関係な芸術家であり、ストリックランドの奇怪な肖像を際立たせるための道具である。これがミセス・ストリックランドとか、ブランシュ・ストルーヴとか、マルセイユの波止場ゴロとか、タヒチの花屋ホテルの女将《おかみ》とか、医者のクトラとかいった脇役の人物になれば、その一人一人に個性があって、いずれもロマネスクの中に息づき、ストリックランドとの接触点に於てそのロマネスクが相乗作用を起す。  第三にはこうした登場人物たちが充分に書き込まれ、真昼の光に照され、そのために一種の日常性をそなえているのに反し、主人公だけは暗闇の中に潜んでいて時々人工的な照明が当てられるにすぎない。但しその照明は強烈で、一切の日常性を剥奪した抽象的な光線といったものである。そして作者がこういう魅力ある人物を創り出すことが出来たのは、彼がポール・ゴーギャンについてよく知らなかった、或いは知っていること想像し得ることだけを惜しみ惜しみ使った、その結果ではなかったかと私は考える。つまりモデル小説らしい意匠を凝らしていながら、その実ゴーギャンとは殆ど関係がないのである。  モームがこの小説を書いた一九一八年の時点に於て、ゴーギャン関係の資料として単行本に纏められていたものは、殆ど「ノアノア」と「モンフレイ宛て書翰集」とジャン・ド・ロトンシャンの「伝記」ぐらいにすぎない。資料が乏しい以上、モームとしても想像力を働かすほかに能がなく、そのためにこういう省略的な構成を採らざるを得なかったのであろう。しかし天才を描くためには、正確な描写よりは暗示の方が遥かに効果的である。ダーク・ストルーヴの言う「美とは、芸術家が己れの魂の苦しみを通して、世界の渾沌の中から創り出すものだ。」という定義は、モームにとっても無縁であった筈がない。しかし小説などというものは畢竟《ひつきよう》絵空事だと信じていたモームには、「魂の苦しみ」を正面から描く気持なんか初めからなかったのかもしれない。それを暗示するにとどめた点に、「月と六ペンス」が面白い小説として成功した最大の原因があったと考えることも出来る。従ってこれをモデル小説として読まず、芸術というものの宿命的な不可思議を描いた小説として読むことが、モームに対してもゴーギャンに対しても、親切な読みかたというものであろう。 [#地付き](昭和四十三年六月)     「式子内親王」  式子内親王の数すくない歌のなかで、特に人に好まれているのは恋の歌である。それも内に深い情熱を秘めながら、それを堪え忍んで、抑え切れぬ思慕がおのずから流露したような歌が、特にすぐれている。「前小斎院御百首」は内親王の二十歳頃の作品らしいが、春夏秋冬恋雑のうちで特徴のある歌は殆ど「恋」に集注している。例えば、——   尋ぬべき道こそなけれ人しれず心は馴れて行返《ゆきかへ》れども   つらしともあはれともまづ忘られぬ月日|幾度《いくたび》めぐりきぬらん  式子内親王の歌は、二十歳頃までに「忘られぬ月日」を知ってしまった女性の手になるものである。或いはまた新古今の次の歌、——   忘れてはうちなげかるる夕かなわれのみ知りて過《すぐ》る月日を  新古今の特徴の一つでもある虚構性をここに考えることは自由だが、いくら「忍恋《しのぶるこひ》」が流行していたとしても、式子内親王の歌が一切の経験を抜きにして架空の恋人をうたったとは思われない。というのは定家のような、良い意味のアルチザンの技術が彼女に備わっていたとは、どうも思われないからである。彼女は真実そのものの心から男を恋い、その恋を忍び、やがて諦めた。それでなければ、ただの技巧的な心情の虚構に、後世の人がみな騙されるということはないだろう。私たちが打たれるのは、彼女の切々たる思慕と、その思慕を心の中に持ち続けた「われのみ知りて過る月日」の空しさに対してである。「後白川院かくれ給ひて後百首歌に」の詞書を持つ次の歌、——   斧の柄の朽ちし昔は遠けれど有りしにもあらぬ世をもふるかな  この時は四十歳ぐらいだったろうが、彼女は「有りしにもあらぬ世」を生きて、五十歳にもならぬうちに死んだらしい。どのような経験が彼女をこういう心境に追いやったかは分らない。しかし私には、彼女が早くから人生を幻のごとく観じて、一種の死者の立場から人事を見、風物を見ていたような気がしてならない。  馬場あき子さんの新著「式子内親王」を読んで、内親王の青春に何かしら決定的な事件でもあったのかと好奇心を抱いたが、格別の証拠もないようである。それに私には、今迄通り内親王の恋人が誰だったのか明かにならない方が、寧ろこの女流歌人の哀れさを深めるように思われる。 [#地付き](昭和四十四年六月)  [#改ページ] [#小見出し]  足跡    夢想と実現  ロマンとは持続である、とアンドレ・ジイドが「贋金つくりの日記」の中に書いている。  僕はこの夏以来二つの長篇を計画しているが、このジイドの言葉ほど、常に、ひしひしと思い当るものはない。どうにも怠け者に生れついているから、規則的に原稿を書き続ける習慣を持つことが苦しい。しかし短いものを書くのなら、一時的な霊感に全身をあげてぶつかり、書いたあとはくたくたになって伸びてしまっても事は済むが、長篇の場合には、精神も肉体も充分に節制し、少しずつ、確実に、長い月日をかけて完結する他にはない。ちょっとした思いつきや、小手先の器用さだけでは、長篇は決して出来上らないのだから。  むかしポール・クローデルはフランス大使として日本に来ていた頃、朝起きてから大使館に出勤する迄の数時間を、日課として、詩劇の制作に当てていたそうだ。あれほど天与の霊感に充ちたクローデルの詩劇が、毎日何行かずつ、義務的に(と他人には見える)書きすすめられて行ったというのは、まったく敬服の他はない。他の時間は大使館での事務や応対や読書に当てられていたのだろうから、クローデルが真に自分の時間として持ち得たのは、朝のこの数時間にすぎなかっただろう。しかし長いものを持続的に書くためには、恐らく一日に確実な二時間があれば足りよう。ただし一日も休むべからずだ。従って創作慾が、連日、弛みなく、充ち溢れていなければならぬ。  これは何もクローデルばかりではない、フランスの小説家たちはみんなこういうふうに、日課的に、仕事をしているらしい。長篇なら、それ以外に方法がないのだから、当り前の話だ。しかし我が国で長篇を書く場合には、そううまく問屋がおろさない悪条件がそろっている。例えば、……が、こんな泣言を並べても始まるまいから、結局は個人個人の努力に俟つまでのことだ。  僕の二つの長篇は、現に今書いている方はジイドの謂わゆる物語《レシ》みたいなもので、ノオトと断片だけが出来ているもう一つの方が、どうにかロマンの名に価するものだ。レシは、語り手によって物語られる第一人称の体裁を持ち、その内容は一つの完結した時間の中で演じられる。それは古典的な簡潔さを持って、一種の額縁に入れられた絵のような印象を与えるが、それだけ小ぢんまりと纏まりすぎる懼れもある。僕の今の計画は、額縁の部分がそれ自体一つのレシになり、二つのレシ、言い換えれば二つの時間が交錯することによって、作品の全体が二重の照明を当てられるような作品にすることだが、そうなるとこれは物語《レシ》と呼ばれるだけの純粋さを喪うかもしれない。このように、単純なレシでは満足できないというのは、何処から来たことだろう。僕は十年ばかり前に「風土」を書いていたが、これは第三人称の小説であるものの、内容の点から言えばレシに近かった。僕は途中で、何ともその小ぢんまりした仕組《アントリーグ》が気に入らず、そのうちに別の本格的な大河小説を構想することで「風土」の方を忘れてしまった。後に、どうしても書きあげるべき義務を自分に課した時、僕は初めに考えてもいなかった第二部を挿入することで、全体をロマンに仕立てる窮策を思いついた。  現に書いているレシでも、次第に額縁の部分に興味が出て来るし、それよりは、この次に書こうと思っているロマンの方が一層気持をそそる。そこで考えるのだが、ジイドの作品の書きかたは、いつでも主題の発展によって新しい作品が生み出されるという形を持った。或る場合には楯の両面のような二つの作品が、同時に構想されたり執筆されたりしている。「パリュード」と「地の糧」、「背徳者」と「狭き門」などは、その最もよい例だろう。特に、「狭き門」の構想があったからこそ「背徳者」が書けたというジイドの言葉は、こうしたレシの、作者に対する意味をよく表している。この二つの作品は、平衡秤としてジイドの精神の二つの極を示している。しかし「贋金つくり」のようなロマンでは、作品自体があらゆる内容と表現とを含んで、それ自身の重みで平衡しているのだ。  僕などが小説を構想する場合に、一つの作品の中に自分の持っている主題の全部を投げ込みたいと考えるのは、一種の若さのせいなのだろうか。二つの作品が、相互に意味を持ち合って、双児のように育まれたという経験がない、従ってレシがレシらしい純粋さを持たず、構想している間に次第に複雑にひろがって行ってしまう。  このことはまた別にも言える。僕なんか恐らく二十五歳くらいの時に、自分の中のあらゆる構想力を駆使して、さまざまのロマンを夢想し尽していた。多くの主題が内部で同時に成長した。しかもそれらを、一つずつ、次々に作品に仕立てあげ、その上で自分から捨てて行くことをしないで、同時に幾つものロマンを、その主題、その仕組、その登場人物を個々に所有しながら、僕の中でゆっくりと育てて行ったのだ。勿論それらは、未熟なうちに文字に定着されなかったために、その後の日々の経験によって裏打され、吟味され、修正され、また補足された。十年前に書いていれば、今書くものとは違った形で完成したろうということは言える。しかし、あらゆる作品は、夢想から実現までの間にゆっくりと経験の蜜を貯え、思想の露を与えることによって、初めてその十全な形態を採り得るのではないか。僕は十年前に考えていた大河小説を、その当時三百枚書いたきりで以後まったく手をつけないでいるが、その登場人物たちは今でも常に僕の内部に住み、彼等は実在の友人たちよりも一層の現実感をもってそこに生きたり死んだりしている。現に書いているレシでも、これから書く筈のロマンでも、僕はそれらをあたため出してからもう何年になるだろう。夢想することもまた持続であり、徒らな空想は時間とともに雲散霧消してしまうが、真に主題を踏まえた構想は、次第に熟し、次第に豊饒に実って行くとは言えないだろうか。  実を言うと、夢想から実現までに長い時間をかけないで、すらすらと小説の書ける人が僕は羨ましくてしようがない。しかし僕は僕のようなやりかたで、極めて僅かずつ、自分の努力を持続する他にはないだろうと思う。 [#地付き](昭和二十八年十月)     芸術と生活とについて  先日僕のところに何箇条かのしちめんどうくさいアンケートが来て、その中にあなたは作家になる直前にどんな職業についていたかという一項目がありました。これはなかなかの難問です。一体自分はいつから作家になったのだろうか、作家とは一体何だろうか、とその時考えました。この作家という言葉がどだい僕はあまり好きじゃありません。小説家と呼ばれる方が好きですし、高見さんなら文士と呼ばれる方をお好みでしょう。何だか小説家という語感には純文学の匂がし、作家というと大衆作家や推理作家をも含むような気がするのは、近頃はやりの純文学論争のせいでしょうか。  そこでアンケートのことですが、ここに言われている作家とは、どうやら職業《ヽヽ》としての自立性を指すようです。もしも小説家或いは詩人としての自覚《ヽヽ》という点で問われたのならば、僕はたちどころに、もとは学生(これも職業じゃありませんが)と答えるところでした。そこでとにかく折り合うことにして、小説らしい小説を書いた直前の職業を答の欄に書き込みましたが、考えてみると現在でも尚、僕が作家として自立しているかどうかは甚だ疑問なのです。つまり大学の教師を兼ねていて、自分では小説家のつもりでも人はそうとばかりは見てくれないからです。先だっても議論をして、高見さんから大学の教師に生活なんかあるものかとやられました。生活はニコヨンにあるとおっしゃったようでしたね。確かに教師の生活なんて月並な味けない代物です。しかし、これも生活であることに間違いはありません。  芸術はつまり内容と表現との関り合いに基づくものでしょう。その場合に、生活は——つまり体験は、その個人の内部へと深く沈んで行くことによって、或いは想像力の翼で宙を翔ることによって、深まり広がることが可能だろうと思います。僕だって波瀾万丈の生活に憧れないわけじゃありません。外的体験の貧しさはよく知っています。それだからこそ僕は表現の問題に、つまり小説の方法に、より一層首を突っ込むのです。そして結局、出会うところは同じではなかろうかとふと考えるのです。  こういうことを申すのは、これからの若い小説家志望の連中が、幾人も「蛙」の生活をしているのを見ているからです。彼等が筆一本でやって行けないのは、何も彼等に才能が欠けているからではなく、彼等にとって外的体験が内的生活に結びつくという確実な自信があるからではないでしょうか。彼等は彼等なりに「身体を張って」経験の蜜を貯えている筈です。世界は狭くなり、彼等はしがない語学教師などをしながら、文学を世界的視野に於て捉えようとするでしょう。どうか長い目で見てやって下さい。  僕はいまシベリウスのレコードを五枚ばかり抱えて、信濃追分の山荘の方に来ています。今度書こうとしている長篇小説の、謂わば霊感を定着するためです。こういう発想方法も、やはり生活が貧困だということに帰着するのでしょうか。僕の「ゴーギャンの世界」という本は、河上徹太郎氏によって「ディレッタンティズム」と評されました。が、僕としては単なる趣味の産物ではなかった筈なのです。その轍で行けば、これもまた、きざだと嗤われるでしょう。そういうことになれば、この問題も、結果は芸術と人生とに対する受け入れかたの違いということになるのではないでしょうか。  意を尽しませんでした。またお会いしたいものです。    昭和三十六年十二月二十八日   高見順様[#地付き]福永武彦      泉のほとり 「恋の泉」論争というものがあるそうである。そうであるなどと気取って言うことはないようだが、今日までのところ、格別論争らしい論争にはなっていない。若手の批評家がプロの立場に立ってこの小説を褒めあげたところ、コントラの側から大いに火の手があがったというだけである。両方とも所信を述べたにとどまり、まだ喧嘩まで行かないのに、弥次馬の方は沢山いて、たまたま泉のほとりで瞑想していた私まで、つい気を散らされてしまった。どうせやるならもう少し堂々と、他山の石になるようにやってもらいたいというのが私の希望である。  弥次馬は匿名批評が好きだが、「侃々諤々」と「回転木馬」とがそれぞれコントラ側とプロ側とを代表したような顔をして、十返肇にたしなめられたのは滑稽だった。十返肇も「風景」七月号では匿名批評を批評して骨のあるところを見せたが、「文学界」七月号の「実感的文学論」の方では、プロについているんだかコントラ側なのか、さっぱり分らないような、曖昧な表現をしている。文壇的でなく文学的であるためには、夫子あたりがまず旗幟を鮮明にする必要があろう。  と、ひと事のように言ったが、私の立場も実はあまり明かであるとは言いがたい。大体事の起りは「群像」六月号の「創作合評」で、私は三島由紀夫、花田清輝のコントラ連合軍を向うにまわして孤軍奮闘した。ところがその私も、必ずしも「恋の泉」にプロであるとは言いがたい。勿論コントラではない。しかしこの作品の評価には私なりの保留があって、とても篠田一士や丸谷才一のように、無条件で傑作と呼ぶわけにはいかない。従って合評会に於ける私の発言は、三島由紀夫みたいに勇壮活溌な高笑いも出なければ、花田清輝のように猫撫で声も出せない始末だった。だいたいこの座談会の間じゅう、何でまた三島はこんなにいきり立つんだろうと、ひそかに精神分析を試みたりしていたが、活字面になったのを読んでみると、何とも凄まじいものだ。三島の悪口は恰も養子の亭主に悪態をつく年増の如くである。花田清輝の方は嫁をいびる姑《しゆうとめ》の如くである。  中村真一郎は私の古くからの友人だから、彼と私との間の文学的理想がほぼ似ているとしてもおかしくはあるまい。しかし実現の方法に至っては、相当な逕庭がある。彼は小説と同じくらい沢山のエッセイを書いているから、小説に於ける彼の理想と方法とはまず誰にでも分る。現に今度出た短篇集「告白療法」には、おしまいに「我が小説観」というエッセイが註の形でついている。私の方はエッセイを書くのは不得手だから、私の小説観が彼のとどう違うかは、人にはよく分らないだろう。しかし小説そのものだけでも、二人の間の相違はほぼ明かな筈である。  ここのところで、そうした分析をやる必要はあるまい。しかし一言だけ言えば、彼の小説は全体小説的・風俗小説的方向を目指し、私のそれは純粋小説的・観念小説的方向を目指すようになって来ていると、私は思う。ついでに註を入れれば、純粋小説とは横光利一の説いたような、通俗小説と混血した本格小説の謂いではなく、アンドレ・ジイドの称えたような、「特に小説に属していないあらゆる要素を除いた」小説のことである。全体小説とか風俗小説とかいうのも、彼のと私のとでは解釈が違う。山本健吉が全体小説の解釈のことで篠田一士に抗議していたが、どうもまず術語の定義を正確にしてから物を言わないと、詰らぬ誤解から論争が平行線を描くことがままあるから、これも論争に対する私の希望のうちに加えておきたい。  中村真一郎はロマンを志したが、五部作以後レシの専門家になってしまった。それが今度の作品でも、ストーリイを必要以上に誇張した印象を与えるに至った原因である、というのが私の保留の一つである。しかしこの作品は、少くとも今迄のレシよりはレシからぬものを意図していて、その方向に彼の小説が完成するだろうということは看て取れる。私は意図だけよければ出来栄えは問わないという意見ではないが、それだからといって意図を軽んじたのでは、二十世紀に小説を書く意味がない。昼寝をしながらフロベールやバルザックを読んでいる方が、愉しいにきまっている。中村と私とでは意見の分れることはしょっちゅうで、自分たちの作品についても、例えば私の「告別」を彼はちっとも買わないが、それは私の作品を彼が「自己表白の手段」と見たからであろう。それは彼の小説観と相容れないから当然である。ついでに言えば、さる批評家も「文学界」六月号でこの作品をこきおろしたが、この方は論旨明快でなく、さっぱりわけが分らなかった。批評家が居丈高になって悪口を言うのは見苦しいものである。しかし小説家は悪口を言われても、いずれ作品で勝負をしようという気があるから、大抵のところは笑って済ませられる。  今度の「恋の泉」の評価問題についても、新たに大岡昇平が「群像」七月号で敵役を買って出たが、中村真一郎が自分から、いやこれは通俗小説ではないなどと、弁解できる筈もないことは自明である。大岡昇平のを読むと、己は通俗小説でも成功作を物してみせると言いたげだが、それは刮目して待つことにして、中村の作品の分析のところは、少々枚数が不足、つまり論理が不足していよう。これは三島由紀夫の場合にも言えることだが、作品の読後感が、一作品の場にのみ限定されていて、作者のこれまでの進化、或いは軌跡と、まじわるところがない。批評家はそれでもいいが、作家としては、やはり同業者の作品全体の上に当の作品を置いて考察するだけの親切が、望ましいのではないだろうか。大ざっぱに言えば、私たちはみな青春の荒廃の上に立っているので、青春が人生の本質に転化するためには、作品は一つ一つ奇妙な錯乱の痕をしるしづけながら進んでいる筈である。そして下降しつつある精神力をふるい起して、単なる成功作と言われるよりも、野心的実験的な試みによって失敗作と呼ばれるような作品を、書く運命にある、と私には思われる。  そこでこの論争がもしも軌道に乗り、特にプロ派に属する若手の批評家が「恋の泉」を高く買ったことに責任を持つならば、一つこれらの風俗小説家を(というと異議があるかもしれないが、中村真一郎、三島由紀夫、大岡昇平を同じ視点でひっくるめて)、個々の軌跡に於て分析しながら、結果的には綜合的な現代小説の見取図になるものを作ってくれないだろうか。これこそ、まさに文壇批評ではない立派な文学批評になるだろうと思う。どうもそういう野心的な試みが批評家の方にも出なければ、小説家の発言に惑わされるばかりで、批評そのものもいささか弱体ということになろう。  これが泉のほとりでの私の希望である。 [#地付き](昭和三十七年六月)     取材旅行  或る場所を背景に使うために、もしそれが熟知の場所でない時には、わざわざ視察調査に行くというのは小説家として良心的な行為であろう。近頃は風俗的に読者の好奇心をそそるような題材がはやり、或いはそういう刺戟的な題材のためにのみ取材旅行をすることもあるかもしれないが、私はそういう通俗的な作品のことを言っているのではない。一つの土地が、その小説家の書く予定の小説の舞台としてどうしても必要であるような場合に、そこに出掛けて行き、具体的なイメージを得て来る、といった種類の旅行のことである。  私は生来おっくうがりで、容易に腰が上らない方だが、楽屋をさらけ出すと、行かないで或る場所を書いた小説が幾つかある。例えば「廃市」というのは筑後柳河らしいところを舞台にしたが、早急に九州くんだりまで行く暇もなし金もなしで、柳河の白秋遺蹟を写した「水の構図」という写真集を丹念に見て、それに想像力を混えながら書いた。「忘却の河」では、日本海に面した海岸にある賽の河原を書かなければならず、賽の河原については適当なものが見つからなかったので、浜谷浩氏の「裏日本」という写真集を、これまた丹念に見て、大体の雰囲気をつかんだところで書いた。ついでながら、ここで浜谷氏に厚くお礼を申し上げる。この一冊の写真集は、私が資料に用いたことを別にしても、その素晴らしい内容にはすっかり感嘆した。  万事こういう調子だから、いずれの作品でも、小説の舞台は明示されていない。写真集も紹介記事もなくて、想像力だけを頼りに、ただ何となくその地方らしいようにという程度で書いたのも少くない。固有名詞を伴わない、何処でもいい場所で書くというのが私の理想だが、何としてもリアリティを持たせる必要があり、あまりに曖昧模糊とした場所では読者が納得しないだろう。出掛けて行って実際の場所を見るに越したことはない、それは当然である。  現に中絶していて、しかし必ず書く筈の長篇が何と三つもある。その一つ「死の島」というのは、原爆に生き残った女性を主人公としているから、どうしても広島を見る必要があって、二年ばかし前にはるばる出掛けたが、日赤病院を参観したり町の中を車でぐるぐる廻ったりしただけで、あまり参考にはならなかった。もう一つ「夢の輪」というのは北海道の或る都会が舞台だが、これは戦争の終った次の年くらいを小説の時間としているから、今ではまるっきり変ってしまっているだろうし、わざわざ出掛けてもどんなものかといささか及び腰である。第三の題未定の長篇は、現に執筆中というか難航中というか、どうにも遅々として進行しないのだが、今年の春そのために伊豆の辺鄙な海岸に滞在し、秋には金沢から能登半島へとまさに取材旅行に赴いたが、目下のところくたびれ儲けみたいなもので、どうすればうまく応用できるか、現に思案中である。我ながら困ったものと思っている。  どうしてこんなことになったのかと言えば、要するに記憶が鮮明では部分的に変に写実的になりそうで、私の考えている小説から遠ざかる懼れがある。私は地方の風俗をそっくり写したり、方言を用いたり、地理なども旅行案内通りに正確で間違いのない描写をするといった、謂わば documentation に徹した作品は苦手である。何となくあそこらしいといったふうな、読者が想像力を刺戟されて知っている場所を彷彿とするような、そういう手法を好んでいる。従って私の見聞したところが、次第に時が経つにつれて薄ぼけて来、具体的な部分が消えて一種の霧の中の風景のように滲んで来た時に、初めてその場所が私に会得されるという仕掛である。既に「草の花」という作品では、伊豆の戸田と信州の追分とを舞台に使ったが、それは私の知っていた頃から十年以上も経っていて、謂わば記憶の薄明を利用したものであった。  しかし何と手間のかかることか。十年経たなければ、自分の知っている場所を使えないのでは、まるで書くところなんかありはしない。かと言って、この薄ぎたない東京の町々には、私は容易に魅力を覚えないし、だいいち同じところばかりでは厭きてしまう。そこで結局、自分で自分の好みにあったような都会とか田舎とかを考え、そこに自分の好みにあった人物を動かして、一つのロマネスクを作り上げる寸法になる。いなそれよりも、舞台なんかは問題でないような、抽象的観念的な構図を描いて、人物が誰もその内部にのめり込んで、その内的風景を見ているような小説を好むことになる。内的風景である限り、実際の場所に似ていようといまいと、それは問題ではあるまい。つまり幻想的なのだなと自分で自分に言い聞かせるが、こういう小説でははやるまい。しかしはやらない小説も、少しはあっていい筈である。 [#地付き](昭和三十九年十二月)     能登一の宮  能登一の宮は能登半島の西海岸にあるローカル線の寒駅で、近くに折口信夫折口春洋父子の墓と歌碑とがある。ということを案内書で読んだので、昨年の秋の末、ひとり金沢から能登半島に遊んだ折に、金沢を出てまずここを訪れることにした。  私の旅行は案内書一冊がたよりの行き当りばったりだったが、たまたま石川県観光聯盟の要職にある新保辰三郎氏が旅程を組んで下さったので、その日は朝のうちに金沢の宿を出て、七尾線で宝達という駅に着き、そこから自動車を駆って千里浜の磯づたいにドライヴし、唐戸山の相撲場を経て気多《けた》大社に詣でた。境内をぶらぶらして社務所で絵葉書などを見ていると、来合せた一人の女人が、折口先生のお墓へはどう行くのでしょうかと尋ねている。持前の義侠心から、僕もそこへ行くんですから、僕の車に乗りませんか、と誘って、待たせておいた自動車へと案内した。  女人などと洒落れて書いたが、つまりは若い娘ではないという意味だ。年の頃は定かでない、まず私よりは年上だろう、地味そうな和服の上にコートを羽織り、小さな風呂敷包みを手にしている。車へ同乗させるなどと如何にも恩を売ったようだが、神社から一の宮の駅まではほんの目と鼻で、忽ちのうちに着いてしまった。そこで車を捨て、松林の傍らにある歌碑の前に女人と共に佇んだ。  一の宮の駅は砂丘のただ中にあり、単線のレールの向うに日本海が見える。ちんまりとした駅の廻りには松林が連なって、見る限り何もない。勿論私等の他に人っ子一人いない。歌碑は二つさりげなく並んでいて、女人はその前で膝を折るとすらすらと歌の文句を読んだ。  さて墓の方はどこにあるか。道を聞く人もいないから、私は鞄を片手にぶら下げてひっそりした停車場へ行き、切符売場の窓から中を覗き込んだ。年寄りの駅員が一人きり番をしていて、そこへ行く道を教えてくれた上で、折口先生の墓には時々お参りする人があると言った。  私たちは駅前の小道を気多大社の方へ少し戻り、十字路を右に曲って、凄まじい響きを立てている鋳物工場の横手の道を辿った。左手の小高い丘の上に墓地があり、暫くそこで手間取ってから、やがてもっと先の、工場の裏を迂回した道の奥に、ゆるやかな斜面をなしている狭い墓地を発見した。そこには名前も何も刻んでない丸石が幾つも幾つも並んでいて、中には枯れた菊などが供えられているのもあったから、これも無縁墓か何かなのだろう。折口父子の墓はその奥にひっそりと立っていた。    もつとも苦しき        たたかひに    最もくるしみ        死にたる    むかしの陸軍中尉    折口春洋        ならびにその    父信夫の墓  と折口信夫の自筆で刻まれている。墓の前には色づいた酸漿《ほおずき》が一つ落ちていた。そして墓石の上を蝸牛がゆっくりと這っていた。墓に刻んだ文字の上に、字の痕を埋めるように、風に吹きつけられた細かい砂がびっしりとこびりついていた。  私はその女人と墓に近い草叢の上に腰を下した。あたりは松林で、向うにかすかに海が見えるが、潮鳴の音も松籟の響きも、鋳物工場から聞えて来る騒音に打消されて殆ど聴き取れない。しかしそれはそれでなかなかに風情のあるもののように思われた。空はやや曇ってぽつぽつと冷たいものが降って来たが、それも直に歇んだ。女人は持参のお弁当を私にすすめてくれ、私は重箱の蓋に混ぜ御飯を半分ほど貰って、二つに折った箸を操りながらうまい昼食を認《したた》めた。何しろ一の宮の駅の周囲には茶店の類は一軒もなく、時分時なのにどうしたものかと思案していたところだったから、渡りに舟と好意に甘えたわけである。  この女人は数年前に御主人を亡くしてから俳句を嗜むようになり、今日は近日中に催される句会のための句を案じる目的で、かねて一度詣でてみるつもりでいた折口先生のお墓へ来てみたのだと言った。金沢の人で、この土地が俳人の多いところだということは私も知っていたが、女人の挙げた俳人や結社の名前は私の耳には遠かった。私たちは俳句の話などをした。見ず知らずの人間どうしが俳句の話などをするには、まさにふさわしい場所だったに違いない。  その話の合間に、私は折口信夫のことを考えていた。学生の頃、私は釈迢空の「海やまのあひだ」を読み、その幾つかの歌を諳誦した。後に「古代研究」を始めとする多くの論文を読んだ。しかし私はその人を識らず、ただ書物によって学んだにすぎない。折口信夫が教え子の春洋を養子とし、春洋は気多神社の由縁《ゆかり》の人であるから、しばしば気多の村に遊び、春洋が硫黄島で戦死したのを悼んで、遂に自分の墓をもその生前からこの浜辺に卜したということを、私は床しいものに感じていた。現に先程の歌碑の文句は、「気多のむら若葉くろずむ時に来て、遠海原の音を聴きをり」である。「若葉くろずむ時」にはこのあたりの風光は明るく爽やかであろう。私は何しろ初めて能登を訪れるのだから、その季節のことは知らない。しかしこの時雨模様の空の下で、人一人いない寂しい浜辺に無縁墓に囲まれて眠ることは、故郷の土地に見事な石碑を立てられることよりも、一層詩人の運命にふさわしいかもしれない。折口信夫はたしか浪華の人だが、学問の研究に旅寝を重ねたのだから、骨を埋むべき故郷は必ずしも生地である必要はなかったのだろう。愛する者と一緒に眠る方が一層|為合《しあわ》せだと言えるだろう。そういうことを私は考えていたが、それは旅にあった私の感傷というものかもしれなかった。  私は煙草をくゆらせ、女人は句帳に何やらしきりに認めていた。そして我々はその墓地をあとにして一の宮の駅に戻った。  私はそのローカル線で終点の三明へ行くつもりで時刻表を予め見ておいたから、私の乗るディーゼルカーはすぐに来る筈だった。女人は三十分くらいあとに来る反対方向の車に乗って金沢へ帰ると言った。その暫くの間、私たちはまた雑談を交した。私が何者であるのか、女人はだいぶ好奇心を起したらしいが、私は身分を明かす必要を認めなかったし、incognito に動くのでなければ旅の面白味というものはない。やがて汽車が来て、私は別れを言ってその車に乗った。  私は金沢の市中で泉鏡花、徳田秋声、室生犀星などの碑を見た。いずれも金沢に生れたゆかりの文人である。能登一の宮にある折口信夫の歌碑と墓とは、場所も不便だし、わざわざ訪ねる人もあまりいないに違いない。しかし風情という点では、少くとも私には、忘れがたい印象を留めている。 [#地付き](昭和四十年一月)     見る型と見ない型      a  小説家の機能は「見る」ことから始まる。それは寧ろ本能と呼んでもいい位で、物を正確に見ることが出来なければとても小説家にはなれないだろう。勿論見たものを描写する技術も必要である。その点は画家も同じことで、こんなことを今さら言うまでもない。  しかし最近のように、あまりに見ることに執してそれが小説界を風靡すると、珍しい材料を探し求めて見物すれば、それを基に一通りの読み物が出来上るという何とも軽佻浮薄な事態になる。見るということがもしもレンズのように正確で冷徹な眼を意味するのなら、物を書くことは到底映画やテレヴィにはかなわないだろう。多くの読み物はそれを映画かテレヴィに移した方がよほど面白いだろうと思われるから、小説それ自体の存在理由は至って乏しい。もっともこうした種類の風俗小説はつまり映画の原作のために存在するので文学ではないということになれば、それまでである。私は何も世の流行作家にけちをつけるつもりはないし、地下室の酒場に若者たちの踊りを見物に行くほど酔興ではない。  しかしことを真面目な小説家たちに限っても、見ることの信仰は深く広くひろがっている。自分の見たものをしか信じないというのは、我が国の私小説的な伝統であろう。勿論この「見る」ことの中には、それによって感じたこと、考えたこと、想像したことのすべてを含むと取れば、確かに見ることは根本にある。しかし狭義に解釈するならば、見ることはその小説家の経験の枠を越えてはならないという、謂わば現実に密着した態度を要求することになろう。そうすると職業的小説家の生活はさして波瀾に富んでいるとは思えないから、彼はごく僅かの「見た」小説と多数の「見ない」小説とを書き分け、前者のみが純文学だと言って気休めをしていることになる。一体その時、彼の見たものが果して本物であるかどうか、見なかったものがただの空想であるかどうかを、どこで区別すればいいのか。  物を徹底して見るということは、私に言わせれば幻覚を生ぜしめるものだ。バルザックの細密描写はあげくの果てに読者を一種の錯乱状態にまで陥れ、そこに現実のなまなましい印象を与えるが、或る意味でよく見られた、或いは見られすぎた現実は、常に幻覚的なのである。従って想像的世界とは、何も半醒半眠的な夢幻的な雰囲気から生れて来るとは限らず、徹底的に見ることによって別個の現実が誕生する。ロブグリエのような視線尊重がどういう効果を狙っているかは、彼の小説や映画を見ればすぐに分ることだ。この場合の「見る」というのは行為に他ならず、私小説的な実感とはまるで違ったものである。私小説に於ては見ることが想像力へまでは導かないし、めったに現実から逸脱すれば、それは実感から外れたということになろう。自分の目玉しか信じない場合に、その「自分の」という点が問題なので、他人の目玉が借りて来られないようではその小説は貧しい。これもまた今さら言うまでもないほど自明のことである。  私は十年以上も前に「死者の眼」ということを言った。死者の眼を借りて現実を見るという見かた、それは川端康成氏の有名な「末期の眼」の延長線の上にあるのかもしれないが、その頃私はそのことに気がついていなかった。川端氏はそこで芥川龍之介や古賀春江の晩年を語っている。迫り来る死を自覚すれば末期の眼を持つのは当然だろうが、私が死者の眼と言った時に、私は何とか生きのびて療養所を出たあとだったので、必ずしも自分を晩年と意識していたわけではない。私は自分だけではない、そしてまた他人のというわけでもない、一つの抽象的な目玉を持つように自分を訓練して、それによって「冥府」とか「深淵」とかいうような小説を書いた。私が見るのと同時に死者が見ている世界、その死者も決して一個人を指すのではないような。そして一度自分がそういう視点を定めてしまってからは、私の小説は今に至っても格別変っていない筈である。      b  ところが私は最近、必ずしも自分が「見る」型の小説家ではないような気がして来た。寧ろ「見ない」型なのではないかと。  見るというのが視覚型とすれば、見ないのは聴覚型、もしくは音楽型ということになるのだろうか。つまり見ても覚えようとしない、或いは見たことを忘れてしまう、それも忘れようと努めることさえある、という別の型である。  私は記憶力の悪いことにかけては人後に落ちない。単に物忘れをするというだけではない、少し古いことになるとまるで記憶があやふやである。子供の頃の記憶が殆どないという主題に沿って「幼年」という小説を書いたことさえある。しかしただに幼年時代の記憶ばかりではない。少し前のことになると、例えば旅行をしても具体的な事実はちっとも思い出さない。それでいてその土地の空気のようなものは喚起できる。人と会って話をしたが、どんな状況でどんな話をしたのか、まるで覚えていない。しかしその人の持っている空気のようなものは喚起できる。つまりその土地なりその人なりの音楽的主題だけは覚えていて、もし必要ならば(というのは小説的にその土地、その人を使う必要が生じた時には)短い旋律から幾つもの変奏を抽き出すことが出来るようだ。細かい事実を寧ろ意識的に忘れてしまった方が、あとから喚起する場合に一層やりやすいような気がする。というわけで私は記憶力の悪いことをさして損だとは思っていない。  しかしこれは負け惜しみには違いないので、記憶力のいい人は羨ましい。文士の資格は記憶力にあると思わないでもない。回想記の類を読むと、如何によく見、如何によく覚えているかが、面白さを決定する重要なポイントである。私なんかそういったジャンルのものは絶対に書けないだろう。何しろ私の覚えているのは空気ばかりなのだから。  音楽というのは見ることの出来ないもの、つまり空気である。それは時間の中を流れて行き一つの印象を残すにすぎない。何度繰返して同じ曲を聴いたところで、その印象が強められこそすれ、音楽の全体が頭の中にはいり切るということはない。そして芸術として完成している音楽の他に、あらゆる現象は隠された音楽を持つと、或いは我々の見る現実からは眼に見えない匂が発散していると、考えることも出来るだろう。私はそうした音楽、そうした匂を、インデックスのように頭の中に保存しておきさえすれば、それで足りるような気がする。その索引を検することによって、私は「無意識」に援軍を求め、そこから私の現実をつくり出して行く。見たものを忘れるということは、つまりは無意識にそれらを引き渡すということではないだろうか。 [#地付き](昭和四十三年九月)     海市再訪      ——想像と現実との間  私の「海市」という小説が出版されたあとで、私はしばしば見知らぬ読者から、あの舞台になっている左浦《さうら》というのは何処ですか、地図を捜しても見つからないからという質問を受けた。小説の中には、左浦という小さな漁村と、その少し先にあるやや大きな友江という漁村と、そこから峠一つを越えた落人《おちうど》という部落と、都合三つの固有名詞が出て来る。その場合、私は正直に左浦は妻良《めら》、友江は子浦、落人は落居ですと答え、しかしあれは半分は想像ですから実物を見るとがっかりしますよ、特に蜃気楼の見える岬なんてのはまったくの創作ですからね、と念を押した。  私は小説の中に実際にある地名を用いることはなるべく避けるようにしている。従って取材のために旅行をするということも殆どない。自然描写が必要な場面は最小限度にとどめ、その描写が小説の中でそれだけの意味を持つように計算する。自然というものは人間の内部にあり、私にとって重要なのは、その自然が内部を刺戟して現出したところの幻想である、というのが私の考えなのだから。  昭和三十九年の四月、今から五年ほど前になるが、私は書き下しの長篇小説を書くのにどうにも構想がまとまらなくて、一人で子浦に行った。子浦から波勝《はがち》岬へ遊覧船が出ていて、その船長の関さんという家に、さらにその八年ほど前に、数日間泊ったことがある。その時のこの漁村の印象が鮮明だったので、私はその辺をぶらぶらしたら何かよい智慧が浮ぶかもしれないと期待した。そこで妻良に一軒だけある宿屋に四日ほど泊り、そのあと落居に行ってそこに三日ほどいた。その時の妻良の宿屋にはちょうど或る大学の応援団が合宿中で、数十人の学生が、昼は浜辺に勢揃いして団長の号令につれて野蛮な声で喚き、夜になると飲めや歌えの大騒ぎをした。私は孤影悄然としてロマンスどころではなく、小説のプランもいっこうに進まなかった。そのあとで落居部落に行ったが、海を見下すここの風景がすっかり気に入り、私はそこで恋愛感情は不在の観念から生じるのではないかと考えた。どっちにしても恋愛小説を書こうなどという前提で景色のいい場所に行ったところで、うまく行く筈がない。私はその後一年ほどまったくこの小説に手がつかず、書き始めたのは翌年の春からで、それもさんざん手こずった。 「海市」は結局は三年かかって昨年の初めに上梓《じようし》されたが、妻良(小説の左浦)に関する部分は、宿屋と波止場とは少しは似ているものの、主人公が若い女に出会う岬とか、桜の木の下で絵を描いている小高い丘とか、鴉の群れている庚申塚《こうしんづか》とかいうのは、作者が他の場所を流用したり想像をまじえたりして書いたから必ずしも実際にあるわけではない。ただ落居部落に関する部分だけは私の写生である。  私が重い腰を上げて朝日新聞のM記者と共にこの土地を再訪したのは、季節から言えばちょうど一月ほど早い三月の中旬である。東京に例の物すごい大雪の降った日に、難行苦行を重ねて夜中に漸く下田に達した。その翌日子浦に行ったが、まだ冬の颱風の名残りがあって、波は荒く、夕刻に近づくにつれ水平線と平行に暗い雲がたなびいて、春めいた穏やかな気候というわけにはいかなかった。  子浦の関さんの家をまず訪ねたが、隔世の感というのは大袈裟にしても、私が初めてここに来て泊った時に、小学校に入るか入らないかぐらいだった女の子がいて、お母さんのあとにくっついて歩き、可愛い声で「母ちゃんのう、それがのう」と言っていたのが今は大学生になっているのにも驚いたが、五年前と較べても変ったことは沢山ある。子浦にしても妻良にしても近ごろはやりの民宿が軒をつらね、現に工事中のものも多い。私が泊った妻良の宿屋は国民宿舎ができるとかで、鉄筋を組んでいる最中だったから、これでは小説の中に出るような情緒的な場面は発生しにくいだろう。子浦にはホテルと見紛う立派な小学校が建ち、都会なみに分譲地まであるし、何よりもびっくりしたのは、私は落居に行くのに険しい山道をよじのぼって行ったのが、今は自動車が通れるだけの道が切りひらかれていることだ。私はM君と大学生の娘さんとの三人で歩いて行ったが、いとも簡単に落居に達した。途中でハイカーたちと何人もすれ違ったが、今では波勝岬まで遊びに行く連中も多いと見える。  落居は昔ながらの小さな部落だが、これまた民宿ばやりで殆ど旅館と呼んでもいいような新築の家まであった。しかし大きな岩がごろごろしている海岸まで行くと、景色は旧に変らず、荒い波がしきりと飛沫を上げていた。ビニール張りのお花畑もあり、山では雲雀《ひばり》や鶯《うぐいす》が鳴き、新築中の建物に大工さんがいるほかは、部落のなかはひっそりと静まりかえっていた。私は五年前に泊ったおばあさんの家を訪ねたが、留守らしくて誰もいなかった。しかし人の話では、おばあさんはまだ元気旺盛だということである。  私とM君とは子浦へ戻って関さんのところでのびのびと休息した。何しろ前の日に大雪のために列車が不通になり、それで苦労したせいもあって、その時刻になると私はすっかりくたびれた。伊勢海老とかハマチの刺身とかを出されて、ぜひ一晩泊って行けとすすめられたが、俗用のある身にはそうもいかない。ただ人情と言えば古めかしいが、伊豆は私の知る限り昔から人情のこまやかな土地である。この関さんという遊覧船の船長さん夫妻は、私が小説を書くことなど今までまるで知らなかったろうし、大学生の娘さんからそれを聞かされても、そんなものかなと思うだけのことだろう。要するに十何年前に泊ったことで、いまだに私を忘れずにいてくれるわけである。伊豆の奥地も近ごろはますます便利になったし、新聞や雑誌などで紹介されて次第に騒がしくなって行くようだが、素朴な人情が天然の風景とともに伊豆の魅力なのだから、本当を言うと私は伊豆についてあまりこういう種明しのような文章を書きたくはないのである。 「海市」という小説でこの南伊豆が出て来るのは作品のほんの一部分で、他は関係がない。私はただ恋愛小説の発端として、さもありそうな舞台を選んだにすぎず、それさえも多くは想像力の産物で、実在の場所によってリアリティを持たせようなどという気はさらさらなかった。リアリティを持つべきなのは登場人物の方で、あの主人公である渋太吉の見た風景は、要するに私という作者の幻想にすぎず、作者としては安見子のような女も、左浦の沢木屋という宿屋も、また落人部落も、蜃気楼と同じく架空のものであると言うほかはない。 [#地付き](昭和四十四年三月)  [#改ページ]   掲載紙誌一覧 [#ここから1字下げ、折り返して3字下げ] 読書漫筆——  読書遍歴 「日本読書新聞」昭和二十九年十二月六日号  机辺小閑 雑誌・本「季節」昭和三十一年十月創刊号 夏の読書・蒐書「政治公論」第三十三号(昭和三十三年)  探偵小説の愉しみ 「東京新聞」昭和三十一年五月九日十日附夕刊  探偵小説と批評 「エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン」昭和三十三年四月号  ロマンの愉しみ 「創元」第十号(昭和三十四年八月東京創元社発行)、「批評A」収録  今ハ昔 岩波書店版日本古典文学大系第二十三巻月報昭和三十五年四月刊  本を愉しむ 「東京新聞」昭和三十六年四月五日十二日十九日二十六日附夕刊  推理小説とSF 「毎日新聞」昭和三十七年十月十八日附夕刊  枕頭の書 「ハイファッション」第三十九号(昭和四十三年夏) 文人雅人——  夷斎先生 一、伝説 筑摩書房版石川淳全集第四巻月報昭和三十六年九月刊  二、自由人 新潮社版日本文学全集第五十三巻月報昭和三十八年十一月刊  川上澄生さんのこと 「三田文学」昭和三十四年七月号  仲間の面々 「群像」昭和三十七年十二月号原題「一九四六の三人」  柳田國男と心情の論理 筑摩書房版定本柳田國男集第三十巻月報昭和三十九年八月刊  懐しい鏡花 講談社版日本現代文学全集第十二巻月報昭和四十年一月刊  芥川龍之介と自殺 筑摩書房版芥川龍之介全集第六巻月報昭和四十年一月刊  堀辰雄に学んだこと 旺文社文庫「風立ちぬ」附録昭和四十年十一月刊  折口信夫と古代への指向 中央公論社版折口信夫全集第十二巻月報昭和四十一年十月刊  花の縁 新潮社版水上勉選集第一巻月報昭和四十三年六月刊  内田百さんの本 「日本古書通信」昭和四十三年九月号  和様三銃士見立て 講談社版ダルタニヤン物語第五巻月報昭和四十三年十月刊  会津八一の書 中央公論社版会津八一全集第九巻月報昭和四十四年六月刊  現世一切夢幻也 「図書」昭和四十五年四月号  或るレクイエム 「読売新聞」昭和四十六年三月十四日附朝刊 身辺一冊の本——  東洋的 「群像」昭和二十五年一月号  純粋小説 「朝日新聞」昭和二十八年七月一日附朝刊危険な芸術「文芸増刊芥川龍之介読本」昭和二十九年十二月刊  鴎外の文章 「文学界」昭和三十年六月号  「大菩薩峠」の二三の特徴 河出書房版日本国民文学全集別巻第六巻月報昭和三十一年六月刊  私の古典 「悪の華」「日本読書新聞」昭和三十二年九月十六日号  現代地獄篇 俳優座新人会パンフレット第七号(昭和三十三年)  「堤中納言物語」 筑摩書房版古典日本文学全集第七巻月報昭和三十五年七月刊原題「思いつき」  記紀歌謡四首 「国文学解釈と鑑賞」昭和三十五年十月号原題「古代人の視点」  古代の魅力 「図書」昭和三十五年十二月号  「萩原朔太郎詩集」 「本の手帳」昭和三十七年五月号  「李陵」 共同通信経由「信濃毎日新聞」昭和三十七年十一月二十二日附朝刊  頭脳の体操 岩波少年少女文学全集第三巻月報昭和三十八年一月刊  「東海道中膝栗毛」 「日本読書新聞」昭和三十八年三月四日号  「珊瑚集」の思い出 岩波書店版荷風全集第十一巻月報昭和三十九年十一月刊原題「珊瑚集のことなど」  辞典の話 新潮社出版案内第十九号(昭和四十年七月)  「車塵集」のことなど 講談社版佐藤春夫全集第一巻月報昭和四十一年四月刊  十人十訳 中央公論社版世界の文学第五十二巻月報昭和四十一年八月刊  一冊きりの本 「図書」昭和四十一年九月号  趣味的な文学史 明治書院版世界の文学史 2「フランスの文学」月報昭和四十一年十一月刊  ヘンリー・ミラーの絵 新潮社版ヘンリー・ミラー全集第六巻月報昭和四十一年十月刊  リルケと私 新潮社版世界詩人全集第十三巻月報昭和四十三年二月刊  材料としての「今昔物語」 河出豪華版日本文学全集第三巻月報昭和四十三年四月刊  「月と六ペンス」雑感 新潮世界文学第三十一巻月報昭和四十三年八月刊  「式子内親王」 「婦人之友」昭和四十四年八月号 足跡——  夢想と実現 「新潮」昭和二十八年十二月号  芸術と生活とについて 「文芸」昭和三十七年三月号泉のほとり「新潮」昭和三十七年八月号  取材旅行 「文学界」昭和四十年二月号  能登一の宮 「新潮」昭和四十年三月号  見る型と見ない型 「文学界」昭和四十三年十一月号  海市再訪 「朝日新聞」昭和四十四年三月二十七日附朝刊 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   後記  これは「別れの歌」と「遠くのこだま」とに続く私の三冊目の随筆集である。実を言うと、既に最初の本を出す時に三冊分に足りるぐらいの分量があったのを、編輯担当の藤野邦康君と相談し合い、適当に按配して年に一冊のゆっくりしたテンポで出してもらうことにした。あまり部厚い本になっては読者の負担もかさみ、だいいち読むのにくたびれる。それに出版社の方でも定価の高い本を出すのは厭に違いない。そこで三年計画が無事に終了して、ここに「枕頭の書」をお目にかける。  従って「枕頭の書」という題名は早くからついていて、私にすれば得意の題名なのだが、先だって同じ出版社の某君が、今度はまたひどく古風になりましたねえ、と私をひやかした。そう言われてみると、「枕頭《ちんとう》」などという字が若い読者にすらすらと読めるかどうか。初め私は集中の一篇の題名を取って、更に古風に「机辺小閑」とでも名づけるつもりでいたのだが、これではあまりに荷風好みで、どこの御隠居さんの手すさびかと間違われそうなのでやめにしたのである。  とにかく題名からも想像がつくように、ここには主として書物に関係のある随筆が集めてある。最初の「読書漫筆」は書物を読む愉しみについて書いたもの、書物といっても色々あるから推理小説についての随筆が三つもはいってしまった。「ロマンの愉しみ」だけは既に「批評A」というエッセイ集に入れたが、内容の点から言っても此所に欲しいのでちょっと廻すことにした。ついでに言えば前著「遠くのこだま」で、音楽についての随筆一篇を断りなしに「批評B」から転載したら、熱心な一読者から叱責をくったことがある。編輯の都合なのでどうか悪く思わないで下さい。  次の「文人雅人」には読書の対象である人たちについて書いたものを集めた。多くは文人だが、小見出しが文人だけでは寂しいから雅人というのも附け足した。必ずしも私の識っている先輩知友というのではなく、会ったこともない人が幾人か並んでいる。それに全体の枚数を少しふやすために、比較的最近に属する鈴木信太郎先生と鬼頭哲人君とに寄せた追悼文を、最後に収めた。  次の「身辺一冊の本」というのは、嘗て「本の手帖」が特輯号を出した時の総題で、それをちょっと借用した(因みに言えば、私はその時「萩原朔太郎詩集」について書いた)。この部分には、主として私の愛読した書物についての随筆が並んでいる。普通に言うなら「机上一冊の本」だろうが、私のように寝転んで本を読む癖のある人間には、「身辺」という表現の方が適切である。ここには書評のようなものも当然はいって来る筈だが、「式子内親王」の一篇をのぞいて割愛した。こと批評にわたるようなのは入れたくなかったのと、「式子内親王」の場合は引用の歌が気に入っていたせいである。面白い引用を鏤《ちりば》めることの出来るのが、こうした随筆集の謂わば取得《とりえ》である。  最後の「足跡」、これはまあ私の足跡と取ってもらいたい。文字通り旅に出た時の足跡もあるが、その他は現在にいたるまでの文学的な足跡を、少しばかり集めてみた。こうした随筆という形式では、あまりまっとうなことは気恥ずかしくて言えないものである。  この本の校正を終えて、気がついたことが二つある。一つは、本来私は宣伝嫌いだということである。現に一度、或る長篇が出る時に、写真と文章とを需められてその文章に「宣伝嫌い」と題した(その文章はここには勿論おさめていない)。この生馬《いきうま》の目を抜く世の中にそんなことでは、と人からたしなめられた覚えがある。しかるにこの本の中には、私が自ら進んで自分の書いた作品に触れている随筆が意外にも幾篇かあって、宣伝嫌いもないものだ。これと言うのも、人間には自己顕示慾があって、それが無意識に発動するものであろう、と偉そうに言う他はない。見苦しい点は読者諸氏の寛容を得たい。  次にこれまた偉そうにあちこちで触れていながら、いっこうに実体の現れて来ない作品がある。私がまるで枕頭の書の代表のように扱っている「ギリシャ詞華集」がそれである。少しく註すれば、私が書いているのはその原物ではない。私の蔵書は The Oxford Book of Greek Verse とそのあとに in Translation とついている英訳との二冊本にすぎない。二冊目の英訳の方は一九三八年の出版で、私がこれを本郷赤門前の昭和書店で手に入れたのが、同じ昭和十三年の秋、私が東京大学に入った年だった。私はどうした加減かふらふらとこの二冊を買い、それからホワイトやグッドウインの文法書を仕入れて猛勉強を始めたが、結局のところ物にならなかった。(僅かに読人知らずの四行詩を、「冥府」という小説の題辞として訳したくらいである。)しかしバックラム装天金の瀟洒たるこの二冊は、それ以来今日まで転々として持ち歩いて、今でも時々は枕頭に運んで来る。もっとも枕にするには少し小さい。  我ながら無駄なお喋りをしているが、これも随筆集というのが気楽なせいか。こんなふうにして書いていると、後記だか随筆だかわけの分らぬものになりそうだから、まずこの位にしておく。      昭和四十六年五月朔、信濃追分にて [#地付き]福永武彦   この作品は昭和四十六年六月新潮社より刊行された。